第03話 選ばないという選択肢は――もうない

3.1 不協和音と曖昧さ


石畳を這うように進んだ先で、俺たちは足を止めた。


そこにあったのは、

まるで巨人の肋骨を組み上げたかのような、

崩れかけの石造建築だった。


屋根は半分以上が失われ、

紫色の空から不気味な星光が降り注いでいる。


だが壁だけは異様に分厚く、

外の世界を拒絶するかのような圧を放っていた。


「はーい、今日はここで休憩です!」


ガイドちゃんが躊躇ためらいなく中へ入り、

埃だらけの床にどさっと腰を下ろす。


「宿泊費は無料! ただし――

 寝込みを襲われない保証も、無料でーす!」


「……それ、安心材料のつもりか?」


マサトが乾いた笑いを漏らし、震える手で眼鏡を外して拭く。

壁に背を預けたまま、ずるずると座り込んだ。


「保証がないなら、普通は有料だろ……」


「有料にしたところで、保証は付きませんけどね?」


「最悪だな、この宿」


カオリが腕を組み、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てる。


「理屈としては、今は休息が必要なのは分かるわ。

 ……でも、ここが『比較的マシ』だって根拠、

 何一つ聞いてない」


「雰囲気?」


「殺すわよ」


ぴしり、と空気が張りつめる。


その中心で、ユリナはまだ俺の袖を掴んだままだった。

顔色は青白く、まるで壊れかけの人形のように、

小刻みに震えている。


――崖で、死にかけた。


その事実が、彼女の心を限界まで削っていた。


沈黙が石壁に反響する。

浮遊した身体。掴んだ手首の、細く折れそうな感触。


助けた。それは事実だ。


けれど――その善意が、この閉ざされた空間で別の形に、

変質し始めているのを、俺ははっきりと感じていた。


「……ねえ」


沈黙を切り裂いたのは、カオリだった。

低く、刃物のような声。


「さっきの崖のところ」


彼女は俺を真っ直ぐ見据える。


「……ずっと掴んでたわよね。引き上げた後も」


心臓が、嫌な跳ね方をする。


「……あれは仕方ないだろ。パニック状態だったし、

 また地面が崩れるかもしれなかった」


「へえ」カオリは口角だけを歪める。


「『仕方ない』。便利な言葉よね。 何でも正当化できる」


「おい、カオリ――」


「ねえ」遮るように、彼女が一歩踏み出す。


「あんたのそういう、誰にでも等しく差し出す曖昧な優しさ。

 ここでやられると、正直、迷惑」


「……迷惑?」


「そう」


視線が、ユリナへと一瞬だけ流れる。


「勘違いするし。……させてるわよ」


「ち、違うの!」ユリナが慌てて俺から手を離す。


「私、そんなつもりじゃ……ただ、怖くて……!」


「分かってるわよ」カオリは即座に言った。


「分かってるから、余計に厄介なの」


その言葉に、ユリナが黙り込む。

拒絶のつもりの動作が、かえって『意識している』……

ことを際立たせてしまい、空気はさらに冷えた。


誰も悪くない。俺は助けたかっただけだ。


――でも。


その手が届かなかったカオリにとっては?

期待を抱かせてしまったユリナにとっては?


現実世界でも、何度も繰り返してきた。

中途半端な誠実さが生む、摩擦と傷。


ここ、ドリームランドでは、それが『毒』になる。


「……ねえ」


不意に、部屋の隅からガイドちゃんの声がした。


いつもの軽い調子はなく、

感情の抜け落ちた瞳で、こちらを見ている。


「ここ、感情が溜まりやすい場所なんだよ」


「……は?」カオリが睨み返す。


「そんなふうに淀みを作るとね」


一拍置いて、彼女は言った。


「またさっきの影が、寄ってくる」


「私たちの感情くらい、私たちの勝手でしょ」


「勝手じゃないよ」ガイドちゃんの声が、わずかに低くなる。


「この世界、君たちの負の感情を餌にして、

 より醜く、より具体的な『形』を得るから」


沈黙。


「……だから」彼女は淡々と告げる。


「正直になるか。それが無理なら――

 徹底的に、物理的にも精神的にも距離を取って」


距離を取る。誰にも期待させず、

誰の心にも踏み込まない。


安全で、合理的で――そして、卑怯な逃げ道。


俺は、ガイドちゃんを見た。


彼女はいつも輪の中心にいるようで、

実際には一歩引いた場所から、冷徹に観測している。


誰とも距離を詰めず、

誰にも自分を「選ばせない」。


その孤独こそが、彼女の軽薄な明るさの正体。


「……悪い」俺は視線を伏せる。


「少し、外の空気吸ってくる」


「あ、ちょっと!」


カオリの声を背に、俺は逃げるように建物を出た。


外の空は、相変わらず昏い紫色。

深く息を吸うと、肺の奥が焼けるように冷たい。


――選ばないという選択肢は、もう、残されていない。





3.2 ガイドちゃんへの思い


この世界では、曖昧さはそのまま死に直結する。

誰かを守ろうとして、別の誰かを切り捨てる。


その歪みが、悪夢をより深く、

より救いのない階層へと引きずり込んでいく。


「……今の顔」


背後から、衣擦れの音とともに声がした。


「ここの住人たちにとっては、一番のご馳走だよ」


振り返ると、ガイドちゃんが壁にもたれて立っていた。


いつの間に来たのか分からない。

いつも通りの、軽そうな立ち姿。


「やっぱり出てきたね」口元だけで笑う。


「案内、必要かな? それとも放っておいてほしかった?」


「……尾行か?」


「ひどいなあ」肩をすくめる。


「ガイドの『務め』ですから。

 お客様が迷子にならないように、ね?」


まただ。その「役割」という名の盾。


「なあ……」


俺は、しばらく言葉を探してから、吐き出した。


「さっきのこと。俺、どうすればいいと思う」


自分でも驚くほど、弱々しい声だった。


ガイドちゃんは一瞬だけ目を瞬かせ、

少し困ったように眉を下げる。


「それを、私に聞くんですか?」


「他に聞ける相手がいない」


「……即答?」


「……あんた以外には、思いつかなかった」


空気が止まった。


彼女の顔に張り付いていた「完璧な笑顔」が、

薄い氷が音もなく割れるみたいに、ほんの一瞬だけ崩れた。


「……ほんと、ずるいなあ」


小さく、吐息混じりの声。


「そうやってさ、まったくもう……

 誰にでも自然に懐に入ってくるんだから」


「そんなつもりは――」


「分かってるよ」


彼女は空を見上げた。

紫色の星光が、その横顔を淡く照らす。


「でもね。私は誰かの選択を『助ける』ことはできても、

 誰かに『選ばれる』わけにはいかないの」


「どういう意味だよ、それ」一歩、俺は踏み出す。


「ガイドだの現象だの、 そんなの関係ないだろ。あんたは――」


「ねえ」


彼女は、俺の言葉を遮って一歩近づいた。

近すぎる距離。視線が、真正面からぶつかる。


「ここではね」静かな声。


「自分の気持ちを誤魔化した人から、壊れていくの」


「壊れる……?」


「中身が、別の『何か』に置き換わって」


淡々とした口調なのに、やけに重い。


「優しさも、迷いも、後悔も。全部、

 『食べやすい形』に加工されて、残らなくなる」


「……だから?」


「だから、ちゃんと選んで」


彼女は微笑む。

それは、あまりにも悲しげな笑顔だった。


「誰を優先して、誰を捨てるのか」


「私以外を、ね」一歩、距離を取る。


――ああ、そうか。


この人は、自分が救われることを。誰かの特別になって、

この役割から解放されることを、最初から諦めている。


自分が「選択肢」に入らないように。

誰にも選ばせないように。


だから、道化みたいに笑って、壁を作っている。


それに気づいた瞬間、胸の奥で何かが熱を持った。

カオリやユリナへの後ろめたさとは、まったく違う感情。


「……俺は」言いかけて、言葉を飲み込む。


まだ、何も選べていない。でも。


俺を見つめて「選ぶな」と言ったこの人を、

このまま放っておくことだけは、どうしてもできなかった。


「……行くぞ」俺は背を向ける。


「みんな、待ってる」


「……はい、お客様」少し遅れて、彼女の声。



振り返ると、いつもの笑顔。けれど、その目はもう、

俺を『ただの観光客』としては見ていない気がした。


悪夢は、ここから加速していく。


外なる怪物ではなく、

俺たち自身の心という名の怪物と、向き合うために。



▶幕間へ続く

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