第二話 初めての干渉、S級魔獣の涙

「そんな熱さで燃え続けてたら、痛いだろ?」


 リンの声量は決して大きくなかった。


 だが、空虚な深淵の中では雷鳴のように響き渡る。


 極限まで肥大した、純粋な恐怖の色だった。


「その炎は、攻撃のためじゃない。“防御”のためなんだろう?」


 リンは鋼鉄すら溶かすような高温をものともせず、ゆっくりと手を差し出す。掌を上に向けて。


「弱肉強食のこの九十九層で、子どもの頃に散々な目に遭ってきた君は、命の炎を限界まで燃やして、自分を“近寄りがたい怪物”に見せてきた。」


「でも、本当は……皮膚なんてとっくに焼けただれてて、一瞬たりとも痛みから解放されてない。違うかい?」


 グオ……?


 ミノタウロスの血のような赤い瞳から、殺意がゆっくりと引いていく。


 代わりに、誰にも打ち明けられなかった秘密を言い当てられた子どものような、戸惑いと哀しみが浮かび上がった。


 何百年ものあいだ、こいつを見上げた人間は皆、悲鳴をあげて逃げるか、首を取りにかかってくるかのどちらかだった。


 「痛くないか」と尋ねた者など、一人もいない。


「もう大丈夫。」


 リンの指先が、下りてきた巨大な鼻先にやさしく触れる。


【スキル発動:認知再構成・鎮静】


 指から白く柔らかな光が流れ込み、ミノタウロスの体を包んでいく。


「ここには敵はいない。炎を消して、ゆっくり眠るといい。」


 ガラン、と重たい金属音が響いた。


 巨斧が手を離れ、黒い岩床を砕きながら転がり落ちる。


 そして、誰もが信じられない光景が起こった。


 伝承では残虐非道と語られるS級ボスが、まるで長年我慢してきた子どもが親を見つけたかのように、どさりと膝をつき、その場にうずくまったのだ。


 身を焦がしていた地獄の炎は、ゆっくりと消えていく。


 巨体を小さく丸め、「ウウゥ」としゃくり上げるような泣き声が、深淵に響いた。


【ピン!】


【“不可能クエスト”クリアを確認】


【初撃破実績を獲得:《一滴の血も流さず》】


【配信チャンネルを強制開設。現在の映像を、ダンジョン全域トップページに掲載します】


 半透明の青いウィンドウが、リンの目の前に開く。


 同時刻。


 “冒険者チャンネル”をなんとなく流し見していた数百万の視聴者の端末に、突然ライブウィンドウがポップアップされた。


 画面の中――


 穏やかな雰囲気の白衣の青年が、しくしく泣いているS級モンスターをやさしく撫でている。


 コメント欄(弾幕)は、一瞬で炎上した。


[ ????? ]


[ え、今のって九十九層の狂乱ミノタウロスだよな!? ]


[ 泣いてる……? あれ、泣いてるよな?! ]


[ この配信者誰? どんな魔法だ、精神支配か? ]


[ いやいやいや無理だろ! S級ボスだぞ!? なんで撫でられて大人しくなってんだよ! ]


 リンは、怒涛の勢いで流れるコメントをちらりと眺めただけで、特に説明はしなかった。


 ポケットからハンカチを取り出し、ミノタウロスの目元を拭いてやると、カメラのほうを向いて、職業的な微笑みを浮かべる。


「どうも、“深淵メンタル療養所”へようこそ。」


「私は、精神干渉師のリンです。ご覧の通り、この暴力に満ちたダンジョンでも、S級モンスターにはS級モンスターなりの“メンタルの脆さ”がある。」


「心がしんどい方は、いつでも受付中です。もちろん、死ぬ気で来るなら、それはそれで歓迎しますよ。」


 そう言ってから、リンはミノタウロスの肩をぽん、と軽く叩いた。


「さ、小牛くん。治療が済んだなら、ちょっとは働こうか。たとえば……今、画面の向こうから飛んできてる“悪意”でも、お掃除してみる?」


「モォッ!」


 さっきまでしくしく泣いていたミノタウロスが、瞬間的に表情を切り替える。


 巨斧を拾い上げると、闇の中でうごめいていた数匹の下級モンスターに向かって、耳をつんざく咆哮を叩きつけた。


 下級モンスターたちは、文字どおり尻尾を巻いて逃げ去っていく。


 コメント欄は、再び大爆発を起こした。


[ うわ、キャラ変わるの早っ! ]


[ いやガチで配信者の言うこと聞いてるじゃねーか! ]


[ 高評価押した! これは推す ]


[ てかさ……この人、“光輝の剣”から追い出されたって噂の補助職じゃない? ]


 そのとき、冷ややかな機械音が、ふたたびリンの鼓膜を打つ。


【警報! 警報!】


【解析不能の精神汚染源を検知】


【推定:宿主のSAN値ゼロまで残り十秒……】


 虎の口を出たと思ったら、こんどは狼の群れ。


 リンは眼鏡を押し上げ、ミノタウロスの背後で、光を食い破るように滲むさらに濃い闇に目を向けた。


「どうやら、今日の受付人数は少し多そうだね。」

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