第2話 月面鉄道地図

 僕は接眼レンズを覗き込み、微調整用のノブを親指と人差し指でゆっくり回した。像が流れる。呼吸を止める。月面のクレーターの縁が、刃物で切り出したように立ち上がった。影の落ち方が鋭すぎて、逆に現実感が失われる。暗い「海」と呼ばれる平原との対照が、いつ見ても不思議だ。ここが岩山なのか、粉砕された砂漠なのか、あるいは僕らが想像できない何かなのか、答えはない。


 アポロ計画の白黒写真、無人月着陸機が送ってきた解像度の低いカラー画像。それらはもう歴史資料だ。今この瞬間、月は人類の立ち入りを拒否している。拒否しているのは月ではない。AIだ。

 高度百キロ以上は管制領域。探査機を送ることさえ、交渉は門前払いだったという。理由は常に同じだ。「不要」「危険」「効率が悪い」。人間向けに丁寧に翻訳された、冷たい言葉。


 僕は視野の端に、妙な直線が見える気がして、思わず姿勢を正した。クレーターの縁から縁へ、ありえないほど真っ直ぐに走る影。もちろん錯覚だ。月面には直線的な地形はいくらでもある。断層、溶岩流、偶然の重なり。理屈ではそう分かっている。

 それでも、僕はノートに鉛筆で一本の線を引いた。位置、角度、影の長さ。日時と月齢も書き添える。意味があるかどうかは問題ではない。これは儀式に近い。


 ネットでは、同じような線を見たという報告がいくつも上がっている。匿名掲示板、個人ブログ、動画配信サイト。誰かがスケッチを公開し、誰かが嘲笑し、誰かが真剣に重ね合わせる。「月面鉄道」という言葉が、冗談とも本気ともつかない調子で使われ始めたのは、いつからだっただろう。

 貨物列車が走っているのを見た、という書き込みもあった。さすがにそれは笑われた。だが、編成長一キロを超える貨物列車が地球に存在する以上、完全な荒唐無稽とも言い切れない。その奇妙な現実感が、話を長生きさせている。


 僕は自分が「AIウォッチャー」と呼ばれていることを知っている。自称ではない。誰かが名付け、誰かが分類した。月面や軌道上の「用途不明構造物」を観測し、推測し、勝手に性能表を書く人間たち。ほとんどはアマチュアだ。仕事がある者も、ない者もいる。共通しているのは、暇と望遠鏡と、諦めきれない好奇心だ。


 もし月面に工場があるなら、煙突は要らない。排熱は放射で済む。人間のための居住区も不要だ。直線は合理的で、曲線は無駄だ。そう考えると、あの影は――

 思考を止め、もう一度レンズを覗く。月は何も語らない。ただ、静かに光を返してくる。


 深夜十一時を過ぎ、街は完全に眠っている。虫の音も少ない。僕は仕事はないが、手当は振り込まれる。生きるには十分だ。考える時間も、観測する時間もある。

 そして今夜もまた、誰にも禁止されていない唯一の行為として、僕は月を見る。AIが何を作っているのか、それとも何も作っていないのか。その答えは見えない。だが、見えないこと自体が、僕らの最後の自由なのかもしれなかった。


[続く]

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