第二章 丞相、ヤマトーヴォで一番『自由』な男
妻が旅に出て三日後、俺は完成した報告書を依頼人の丞相に見せるためにスンプ城へ行った。
丞相に指定された部屋、床の間の掛け軸は「六道即是涅槃」の書だ。ほう、人間道どころか地獄道さえ涅槃と言うか。趣深い。
生け花のメインは鈴蘭だった。部屋には白檀の香が焚かれている。
まずは裏千家の手順でもてなされた。
お茶菓子も、その後の、城が一つ買えるような値段の茶碗でいただく抹茶も、実に旨い。
「賢者・半兵衛どん、でら大義じゃったがね……どうじゃ、わしが書いた掛け軸は」
「大変よい書と思います……丞相さま、報告書をお渡しします……もっとも、受け取って頂けるかどうか分かりませんが」
「ほう、そりゃあ……どういうことなんだがや?」
扇子を額に当ててそう言った丞相は、頓智を問われた子どもの笑顔だった。
「読んで頂ければ分かります」
報告書を受け取った丞相は、子どものような笑みを浮かべている。
「ふむふむ、『結論から言うと南方を滅ぼす必要はない』とな。出だしから分かりやすいがね。なるほどのう」
俺はその言葉の先を黙して待つ。
「知っとったわ。わしゃあ、それくらいは知っとったでよ。よう書いてくれたがね。さすがは賢者・半兵衛どのじゃて……『大切な奥方を危険にさらしてまで』よう書いてくれたわ」
予想外の恐ろしい言葉に俺は息が詰まる。
「そういう賢者様じゃで頼んだんじゃわ。ヤマトーヴォでいちばん名の知れた賢者様にのう。案の定の出来だて。満足、満足じゃわい。してじゃな……『白いもん』を『黒い』と偽った、別の報告書を、わしのためにでっちあげてくれんかのう?」
俺は言葉を振り絞った。
「それはできません」
丞相はとても楽しそうだ。
「奥方、三日前に旅に出たそうだがねぇ。賢者様に頼む前に思っとった通りの動きだて……あいにく、わしの部下が後ぉつけとってな。賢者様の里でも奥方の里でもない方角の街道を、北へ進んどるって報告が来とった……あんたさん、ほんに用心深いがねぇ……だ が 無 駄 だ っ た が ね。あんまり泳がせとっても経費がかかるだけで意味ないもんでな? もう奥方には、この王都へ『お戻り願っとる』で」
そう言って、丞相は屈託がない笑顔を俺に向けた。俺は怒りで充ち満ちた。護るべきお糸さんがいるから俺が選ばれたのだ。嵌められたのだ。
「そーんな顔せんでちょうよ、賢者様。わしゃあ、あんたに『あんたの幸せ守るために要ることをしてほしい』って言っとるだけだがね。わしもそうやって生きてきたもんでのう……この国が、幕府と討幕に分かれた内戦をやめたのはの、『南方は危ねぇ』って噂ぁ流してよ。あることないこと、半分ホントで半分ウソを都合よう練り固めてのぅ?……庶民から各国大名、将軍さまにまで、わしの手の者が吹き込んできたからなんだわ。で、そのわしの最後の仕上げの仕事……やらせてほしいんだがねぇ?」
丞相は、心の底からの真っ直ぐな笑みを浮かべた。ぜんぜん邪悪な顔ではない。やりたいことをやりたいようにノビノビとやっている人の顔だ。
「なんということです、秀成様、あなたは、国家の虚偽の利益のために南方を滅ぼすお考えなのですか?」
「うん! そうだがね! 痛快だよ? 国家の……いや、わしの利益のために少数の弱いもんを選んで踏みにじって、都合よう痛めつけるのはな? 誰も反対なんかせんし、むしろわしの掌ん中で踊ってくれるがや。うまくいきすぎて、怖いくらいだわ。……いや、ほんとは怖いんだわ。みんな踊りすぎだでのう……人間ちゅうもんは、『自分よりも弱い敵』をいびるんがこんなに好きなんかって、呆れるわ」
そして、丞相は目尻の皺を深くした。まさに慈愛の顔つき、されど幼児のごとく無垢の瞳で俺を見ている。
「賢者様も、そのこと……民の本質は分かっとりゃあすだろうがね。わしが見込んだお方だて、理屈ぐらい承知のはずだわ。わしは阿呆も嫌いじゃないけどよ、利口がでら好きだがね。とりわけ『賢者』なんて呼ばれるお方は大好きだわ。わしの言うことを聞いても聞かんでもな」
群衆として民がそのように振る舞うこと、少なくとも否定はできない。丞相を務める男はやはり理想主義者でなく現実主義者だ。
「わしは、そういう民のしょうもなさを愛でておるよ。見下しも見上げもせん。わしも変わらんしょうもない阿呆じゃからな。わしはわしによう呆れるよ」
丞相はため息をついた。
「わしも昔は、本気で南方を滅ぼそうなんて思っとらんかったんだわ。いや、今も口では『滅ぼす』言いながら、ほんとは滅ばんことを願っとる。最下層の貧民が、犯罪もせんとその貧乏を耐え忍べとるのはな、『南方よりゃ自分のほうがマシだ』って錯覚があるおかげだでな」
丞相の顔に悲しみが浮かぶ。これは演技の顔ではない。
「だけどな、みんながここまで踊っとると、ここで南方攻めを止めたら国の底が抜けるがね。『次の南方』を作るまでに、長い混乱が起きるんだわ」
それは本当なのだろう。俺も丞相もまた『進むも地獄、戻るも地獄』の中で、自由に振る舞う。国家を背負う者の自由とはそれだ。
「南方差別は、国家にとって麻薬でしたな。ならば、私の報告書が処方箋になるはずです。お受け取りください」
丞相は苦悩を顔に浮かべた。
「のう賢者様よ。民の幸いを最適化しよう思ったら、幸福の積分は要るがね。けど、不幸の積分まで引き算せにゃいかんとは、わしゃ思わんのだわ。なんでか言やぁ、たった一人の不幸ちゅうもんは、民みんなの幸福の積分を、いとも簡単に上回ってまうでのう」
「だからこそ、一人一人を平等に大切にする必要があるのでしょう」
丞相は儚い笑顔で首を振った。
「ある程度以上不幸になると、生産性がゼロのぶら下がりになる。国家にとってはそれ以上でもそれ以下もない。これを過不足なく評価せんと、豊かな国も強い国も作れんのだわ……これを忘れれば、干支の一周でみんながどえりゃぁ不幸な国ができあがる……多くの民が困ってしまう。わしは民の出身だでな、そこが一番に気になるのじゃ。賢者様、あんたはどう思うがや?……こんな話をしたのはの、ちょうどいい塩梅の報告書を賢者様なら書けると思うからじゃ」
「お断りいたします。丞相のお言葉には正義や公正という概念が欠落しているように思います。改めなさったほうがよろしいかと存じます」
「うーん、それもいいかなぁと割と真剣に思うんだがの? わしのような年寄りは妻の墓参りだけしておればよいとも思うのだがの? わしがいなくなって反戦派の筆頭の財務奉行が、あの理想主義者がこの国を十年牛耳ったら、この国はボロボロだと思えてのう……何もかもどうでもいいようなわしでもソレは、そこはかとなくゴメンなんじゃ、ははは」
「引退なさればよろしいかと」
「本気で将軍にそう言うたら、泣かれてまったでなぁ……友だちに泣かれてまうと、なぁ……」
俺はもはや言葉も出ない。丞相の気持ちも、将軍の気持ちも分かるからだ。だが、俺は揺るがん。
丞相は閉じた扇子で彼の首を撫でた。
「だけどよぉ、アイツ将軍のくせに阿呆だでさぁ……ノリノリで南方の民を絶滅させようとするだらぁなぁ……ま、そこがアイツの、かわいいアイツらしさなんだわ。あんたもわしも、上が阿呆で困るがねぇ……アイツ、『生きとってこそ役に立つ人質』を殺しかねんでな……すまんのう、織り込み済みで……」
そして扇子を彼の額に当てた。
「今はもてなしておるでよ。今はな。お戻りいただく時も、嫌な思いはさせとらん。奥方、ずんだ餅が好きなお方だがねぇ……あんたの使いだ言うても用心しとったみたいだが、茶店で所望のずんだ餅を奢ったったら、安心しなすったそうだわ」
うう……お糸さんは食べものに弱いなぁ……『今は』無事なのか。俺は胸が引き裂かれる想いで主張する。
「一殺多生の是非、我らの違い、この一点です」
丞相は、またも俺を慈悲の目で見た。
「応。そうじゃのう……賢者殿は全員を公平に扱いたいじゃろ。わしは……おおまかでええがね、おおまかで……人は老いる、病になる。一殺多生の完全否定は、全員を不老不死化でけたらようやっと具現化されるもんじゃ。内戦やっとった頃の年寄りなんてのう、60まで生きたら御の字じゃよ。いまは70で死んだら早死にじゃと言われる。民の保険を手厚くしても、金持ちのほうが長生きすると怒られるわ……ええんじゃ、自然な感情じゃから」
そして遠い目になった。
「だけどねぇ、医学が進んで、みんな長生きするようになってまってな。みんなが国に納めとる分より、国からもらう給付のほうが多くなりかけとるがね……このまま行ったら、ワリ食うのは若い世代なんじゃないかって思うんだわ……わしには、これ、解決できんかったでよ。これを賢者様が解決してくれたら、報告書なんて、もうどーでもええようなもんだて……」
丞相が突然、鷹のように鋭い目で俺を見た。
「なあ、これを解決してくれるっちゅうなら、賢者様に奥方をお返しして、賢者様の報告書をそのまま将軍に渡して、わしは丞相の座を退いて、賢者様を次の丞相に推薦してもええがね……本気じゃよ? 今日の本題はこれじゃ」
俺は答えられないまま二分を過ごした。そして言葉を絞り出した。
「解決する、と言いたいのは山々ですが、私にも難しきことです。どうすれば良いのか皆目分かりませぬ」
互いに無言の時間が三分ほどある。
「……賢者様、話ぁ終わりだがね。この調査を引き受けた時点で、あんたはもう詰んどったんだわ。嘘っぱちの報告書、書いてくれるかや?」
お糸さん、どうしたらいい。いま君だったらなんと言う? 嘘の報告書を俺が書いたらどう思う?
……そうかぁ、そうだよなぁ……君なら、まずは無言で俺をグーで殴るよなぁ……。
すまないお糸さん。君を殺し正義を押しとおす。
「お断りします、丞相。この報告書はこのままで公正です。このまま賢者会議にかけます。それもなるべく早く。私が帰宅次第、臨時の賢者会議を召集します」
「ほう、奥方の命よりも正義を取るか、見込んだ以上の大賢者じゃ、尊敬するわ。じゃが困ったのう……ふむ……よし分かった、賢者様。その報告書……ひとまず預からせてくれんかのう」
何のつもりだ。しかし、俺にはこれを渡すより他にない。
「丞相、賢者会議は開きますぞ。必ずやこのヤマトーヴォの賢者全てを説得し、将軍へ圧力をかけます」
丞相は笑顔を崩さない。
「わーかった、わーかったわい!……ヤマトーヴォいちの賢者様、もうさすがだて……やりたいようにやりゃあええわ」
「では私は帰ります」
「応! お疲れさまじゃった!」
やけにあっさり帰された。
お糸さん、いま君はどこでどうしてるんだ。
すまない。いま恐らく、俺は君を怖い痛い場所へ突き落とした。
俺は賢者会議を開く場所、スンプ城の一室を目指していた。
しかし、途中で衛兵に取り押さえられた。
「何をする。誰の命令だ」
丞相、という答えを期待してそう喋ると。
「将軍の命令です」
と意外な答えをされた。
衛兵は三人がかりだ。衛兵に刃向かっても社会的立場が悪くなるだけだ。
「まあ、離してくれよ。君らの言うとおりの場所についていくから」
「地下の牢獄です……賢者様の新しい住まいをご案内します」
新しい住まいとな。長丁場になるのか。
鉄格子の座敷牢に閉じ込められた。ここスンプはそこそこ温暖だが、まだ春なので少し寒い。
反抗しなかったお陰で、愛用の宝杖を持ち込めた。神通的にも物理的にも強化してある大切な物だから、取り上げられなくて良かった。
一時間ほど坐禅していると、数人が階上から下りてきた。
将軍と供の者だ。
将軍は開口一番こう言った。
「賢者・半兵衛どの。貴方の報告書は読ませて貰いました。非常に説得力がある具体的な報告書でした」
この時点で将軍に報告書を渡せるとしたら丞相しかいない。
「それならば何故!」
「半兵衛どのほどの賢者であれば……『黒い物』を『白い』と書くこともたやすいでしょうな」
ああ……どうやら丞相に手渡した報告書はこういう形で『有効活用』されたらしい。
「何故あのような報告書を書きなさった? 南方の女にたぶらかされましたか? それとも、彼らに怪しい術でもかけられましたか?……ふん、実に恐ろしい奴らだ。やはり滅ぼすしかない……半兵衛どの、こんなものを賢者会議にかけようとした貴公を許すわけには参りません……それに奥方を逃亡させようとしたらしいですな。何か後ろ暗いことでもおありだったか?」
むう、疑心暗鬼の将軍を説き伏せるのは、真実をもってしても難しそうだ。しかし、真実以外は言えない。
「その報告書は全て本当です。妻を逃亡させたのは、主戦派の丞相から彼女を守るためです」
将軍は顔に怒りを浮かべた。
「ふん、もう良いわ。今となってはお前の『白い』など信じる気にもならん。だが、お前を殺すとなれば、賢者会議を説得する必要がある。しかし報告書を彼らに見せるわけにはいかん。だから時間がかかる。その前に、予は南方を討ってくる……そうだ、その前に……お前の妻を殺せば、お前は後悔するだろうなぁ。苦しいであろうなぁ。自ら命を絶ってくれるかも知れんなぁ……うまくやれば賢者会議もお前の妻の死に過剰に反応することはないじゃろうし、お前の妻には明日『自宅で病死』してもらうぞ」
「」
言葉も出ない。
「楽しみにしておけ。さらばだ」
翌日。友が牢獄を訪れて、妻が病死した、葬式は任せてくれと俺に告げた。
俺は妻を守れなかった。むしろ殺した。
後日、別の友に印籠を渡された。中には妻の遺毛が入っているという。友が帰った後に印籠を開けると果たしてそのとおりで、焦げ茶色の妻の毛が入っていた。
一ヶ月ほどした頃、看守の噂話で、南方が滅ぼされたことを知った。
俺は誰も守れなかった。
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