黒ノ聖夜 BLACK SANCTION05
市役所の庁舎は、ほどほどに新しい灰色の建物だった。ロビーには、市の観光パンフレットや子育て支援の案内のほかに、『パンデミックを完封した奇跡の街XX市』とタイトルのついたパネル展示が設置されていた。
「こうして改めて見てみると……当時は異様な空気感だったよね」
そこには当時の写真が並んでいた。マスク姿の市民たち、消毒をする職員たち。
マスクや消毒の是非を問うつもりはないが、全てがピリピリしていたあの期間は、良子は好きではなかった。
周りから逸脱行為をする人も、それに石を投げる人も、そんな話を聞くたびに気分を重くしたものだ。
良子はカメラアプリを立ち上げて、パネルを写真に収めた。
改めてパネルを見ると、その真ん中に――防護服の上からでもわかるほど痩せた顔つきの男性医師が、成瀬市長と並んで写っていた。
「これが……院長先生?」
キャプションには『XX市立病院 院長・羽村史郎(故人)』と記されていた。
きちんとしたスーツ姿で写っている別の写真の中の羽村は、白衣姿よりも少し柔らかい印象だった。白髪混じりの髪が年齢を感じさせるが、どこか少年っぽさが残る笑顔で、誰かの肩に手を置いていた。
先程の写真とは随分肉付きも違って見えた。
「……病気でも抱えていたのかな」
ふとそんなことを思った。
その時、背後から声がした。
「あの、何かご不明な点があればご案内できますが」
振り返ると、広報課の腕章をつけた若い職員が立っていた。名札には「広報課 山城」と書かれている。
「あ、すみません。都内のネットニュースの者なんですけど……五年前のパンデミックの件で、いろいろお話うかがえればと思って」
名刺を差し出すと、山城は少し緊張したようにそれを受け取った。
「五年前の件ですか。ええ、もちろんできる範囲でなら」
会議室を借りるまでもなく、ロビー脇のテーブルで簡単なインタビューをすることになった。
「当時は本当に、あっという間でしたね。市長の決断力もそうですけど、何より医療現場の皆さんが……。特に羽村院長先生が、陣頭指揮を取ってくださって」
山城は用意された「公式のコメント」をなぞるように話しながらも、ときどき本当に大変だったのだろうという表情を見せる。
「羽村先生のこと、覚えてる方多いですか?」
「ええ……あの、個人的な感情になってしまいますが、みんな本当に感謝してます。ただ、その……先生のことを話すと、今でも涙ぐんでしまう人も多くて」
山城は言葉を選ぶようにして続けた。
「先生は、現場でも率先して感染対策に尽力されて……その無理がたたって持病が悪化したと聞いております」
「あ、ごめんなさい。辛い話を無理に聞き出すつもりはないんです」
良子は慌てて手を振った。
「ただ、当時のことを、今の視点からもう一度見直す、みたいな記事にできたらいいな、というか」
「そういう形なら、きっと先生も喜ばれるんじゃないでしょうか」
山城は少しだけ微笑んだ。
取材メモはそれなりに埋まったものの、引っかかりは残る。
市長の対応、市民の協力、奇跡のような完封――表向きのストーリーは、どの資料を読んでも同じだ。
気にしすぎかもしれないが、「羽村院長がどう亡くなったのか」については、ここでも「持病の悪化」程度に濁された。
実は感染症で亡くなっていたとしたら死者ゼロというのが嘘になってしまうから? と勘ぐってしまう。
市役所を出ると、木枯らしが良子を出迎えた。乱暴に吹き上げようとする風に、思わずコートの裾を押さえた。
そして、開いていた手帳を閉じると、良子は冷たい空気をはらんだ青空を見上げた。
「美談でまとめるには、ちょっと……早いかなぁ」
その声に答えるように、お腹が「ぐう」と鳴った。
ちょうど昼下がりの中途半端な時間帯。
飲食店を探して、とりあえず商店街の方へ歩いてみることにした。
◆◆◆◆◆
地方名物に惹かれつつも、結局どこにでもあるファストフードに入った。時間もかからないし、全国で味が担保されている安心感。いろいろ考えたい時に、食事の味にまで気を回す余裕は無かった。
トレイの端にスマホを置き、食べ終わったタイミングでXX市立病院の代表番号に電話をかける。
「都内のネットニュースサイトの者なんですが、五年前のパンデミックの件で、院長先生にお話をうかがえればと思いまして」
担当に回され、少し保留音を聞かされたあと、受付の事務らしき人が戻ってきた。
「明日の午前中でしたら、三十分ほどならお時間が取れるそうです」
「ぜひお願いします。では、明日の午前に伺います」
通話を切って、良子はほっと息をついた。
「よし、とりあえず病院側の公式ラインは押さえた、か」
もう少しゆっくりしたい気持ちもあったが、仕事をサクサク進めることを優先し、良子は休憩もほどほどに腰を上げた。
駅から少し離れたところに、昔ながらのアーケード商店街があった。シャッターの下りた店も目立つが、それでも惣菜屋や八百屋、古びた文房具店などが、ゆっくりとした時間を刻んでいる。
「すみませーん、ちょっとお話伺ってもいいですか?」
良子は名刺を差し出しながら、タバコと新聞を扱う小さな店の前で声をかけた。高齢の男性店主が椅子に座って新聞を読んでいたが、顔を上げると「あぁ?」とだけ言って、皺の深い手でタバコを灰皿に押し付けた。
店頭でタバコを堂々と吸う。その光景に「昔ながらって、こういうことなんだろうか」と軽く首をかしげつつ、「都市部じゃ見られないよなぁ」と、心が少しだけ浮き立った。
「五年前のパンデミックの時、このあたりってどんな感じだったのかなと思って。ニュースで『奇跡の街』って言われてたじゃないですか」
「ああ、あれなぁ」
店主は眉をひそめて鼻を鳴らす。
当時のことをあまり思い出したくないのか、ボソボソと口ごもりながら話し始めた。
「あん時ゃ、みんなピリピリしてたよ。外出るなだの、マスクしろだの、消毒しろだの。まぁ、結果的に大きな騒ぎにならずに済んだのはありがてぇけどな」
「市長さんや、病院の先生方のご尽力で?」
「んん……まあ。そりゃそうだろ」
店主はそう言いながらも、どこか、言葉の先を飲み込んだような顔をした。
「病院の院長先生のこと、ご存じでした?」
「羽村先生か。あの人は……うん、ようやってくれたよ」
そこで、店主はちらりと周りを見回した。
「まぁ、ここであんまり突っ込んだ話しても何だ。あんた、他にも聞きに回ったりするんだろ?」
「ええ、そうですね」
「なら、そのうち耳に入るさ。まぁ……いろいろ、な」
曖昧に会話を切り上げられそうになって、良子は慌ててもうひとつ質問を投げた。
「そういえば、羽村院長先生がおられた市立病院ってどこにあるんですか?」
「あー、……あんたが聞きたいのは、羽村先生がいた頃の旧市立病院か、今年の春に新しく建った新市立病院か、どっちだい」
「新しくなったんですか? 当時あった病院とは違うんですか?」
「今の市立病院なら、駅の反対側だな。でっけぇのが建ってるからよ。まあ羽村先生のいた病院っていう意味なら旧の方になるけどな」
店主は、商店街の奥の方を顎で示した。
「ちょっと行った先の丘んとこにな。フェンスでぐるっと囲ってあって、立ち入り禁止の看板だらけの、古い建物が残ってる。あれが元の市立病院だよ」
「今は使われてないんですか?」
「使われてねぇよ。解体する話も出てるみたいだけどな。予算の都合か、なんだかんだで伸び伸びになってる。気になるなら好きに行ってみたらいいとは思うけどよ。あんまり近寄らない方がいいぞ?」
「え?」
「不良やごろつきたちのたまり場になってるって噂もあるんでな」
店主はそう言って、また新聞に視線を戻した。
良子が礼を言って店を後にすると、作業着の男性二人が入れ替わるようにカウンターに張り付いた。常連客のようで「よっ、三島の爺さん。グランドエイトをボックスで頼むわ」「あんだよ柘植さん。前買ったばっかだろ。あんまり吸い過ぎんなよ」と親しそうに会話をしていた。
背後でかわされる会話に「コンビニじゃなくて、タバコ屋さんもちゃんと需要あるんだね」と変なところで感心しながら、良子は手帳を開いた。
「旧市立病院……っと」
手帳に新たなキーワードを書き込みながら、胸の奥が少しざわつくのを感じる。
◆◆◆◆◆
日が傾きはじめ、街のイルミネーションがぽつぽつと灯り始めた頃、良子はホテル・ルミナリエに戻ってきた。
「おかえりなさいませ。本日お泊まりのお部屋はこちらになります」
フロントで鍵を受け取り、指定された階へ上がる。廊下は細長く、壁紙はところどころめくれている。だがドア自体はしっかりした作りだ。
鍵を開けて中に入ると――一人で使うには、やけに広い部屋だった。
「……やっぱり元ラブホだなぁ」
ダブルベッドがドンと置かれ、その足元には場違いなほど大きなテレビ。バスルームをのぞくと、やたら広い浴槽と、ところどころヒビの入ったタイルが目につく。仕切られた扉も曇りガラスでぼんやり向こうが透けて見えた。
良子は肩の力を抜いて、ベッドにダイブした。
「はぁー……」
天井を見上げながら、今日一日の出来事を頭の中で整理する。
市役所のパネル、市長と羽村院長の写真。
フロントの女性の、少し曇った顔。
タバコ屋の店主が示した旧市立病院の話。
「奇跡の街、かぁ」
口に出して言ってみる。味のしない言葉のように感じられた。
気を取り直して、ノートPCを開く。今日の取材メモを整理して、だいたいの構成案を書き出していく。美談寄りにも、疑惑寄りにも振れる。どっちに振るか決めるのは――明日、もう少し街を見てからでも遅くない。
「旧市立病院、か……。明日は、あっちの方まで行ってみよ」
そう呟いて、良子はぱたんとノートPCを閉じた。
窓の外からは、遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。風が強くなってきたのか、どこかでフェンスが鳴るような、金属がこすれ合う音が聞こえたような気がした。
良子は耳を澄ませてみたが、すぐに何も聞こえなくなった。
「……気のせい、かな」
首を振って、立ち上がる。
「まずは風呂。あのバスのせいで身体バキバキだし」
大きすぎる浴槽にお湯を張りながら、良子は浴室のヒビの入ったタイルをぼんやりと眺めた。五年前、この街で何があったのか――そして「今」、何が起ころうとしているのか。
その答えは、まだ霧の向こうに隠れたままだった。
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