第3話 出会いのかけら

03.出会いのかけら


 そのとき——僕の視界の端で、ふわりと何かが揺れた。


 黒髪が光を受けて、淡く滲むようにきらめく。空気の層がひとつ歪んで、光だけが優先して彼女に集まっているような——そんな錯覚を覚えた。


 ゆっくりと彼女が立ち上がり、こちらへ向き直る。


 その動作には無駄な音が一切なかった。周囲の空気だけがそっと張り詰めるように変わった。


 そして彼女が顔を上げた瞬間、心臓がひゅっと音を立てて縮むような感覚があった。


 真っ直ぐな黒髪は腰まで届くほど長く、風がないはずの室内で微かに揺れている。肌は淡い光を弾くように白く、涼しげな目元は笑えば一気に柔らかくなりそうだった。


——美人、という言葉では足りない。姿勢、仕草、視線。そのすべてが静謐で、揺るぎない。まるで花の形をした太陽そのものが、そこに立っているようだった。


「私は霧ヶ峰桜(きりがみねさくら)。クラス委員長をしています。……よろしくね、真田くん」


 声は澄んでいて、どこか胸の奥に直接触れてくるような、不思議な深みがあった。


(……返事しないと)


 言葉がすぐ返せなかった。目が離せなかった。息をするのを忘れかけるほど、彼女の存在感が圧倒的だったから。


「よろしく……お願いします」


 なんとか返した声は、ひどく小さかった。


 桜は微笑む。その瞬間、空気がわずかに温かくなった気がした。柔らかい春の風が、窓の外からそっと吹いてきたような錯覚まで覚えた。


 気付けば僕は、霧ヶ峰さんのことを見つめたまま固まっていた。少し不自然な沈黙のあと、霧ヶ峰さんの隣の席から、もう一人の男子が立ち上がった。


「檜山恭介(ひやまきょうすけ)です。副委員長をしています」


 落ち着いた声だった。丁寧だけれど堅すぎない、ちょうどいい距離感を保つ柔らかさがある。眼鏡の奥の瞳は穏やかで、どこか人をよく見ている印象を受けた。


「転校初日は不安も多いと思うけど、困ったことがあれば気兼ねなく相談してくださいね、真田くん」


 言葉の選び方が上品だった。同年代とは思えない落ち着き方だ。霧ヶ峰さんが静かな花なら、檜山くんは穏やかな泉のような安心感がある。


 僕は丁寧に頭を下げた。


「ありがとう。よろしく、檜山くん」


 そう言うと、檜山くんはふっと微笑み、「こちらこそ」と優しく返した。


(……優しそうな人だ)


 この二人が委員長と副委員長なら、このクラスはきっといい雰囲気になる。出会いのかけらは、緊張していた心をほんの少しだけほどいてくれた。


 上野先生に促され、僕は用意された席へ向かう。霧ヶ峰さんの斜め前。目を上げると、彼女の姿が視界の端に入る。


 胸の奥が少しだけ温かくなる。


 一方で、檜山くんの落ち着いた雰囲気が近くにあることで、漂う不安が静かに打ち消されていくのも分かった。


(……今日は、いい日かもしれない)


 席へ座ると、教室のざわめきが再び日常の会話へと戻っていく。でも僕の中では、さっき校長が言った言葉——「仲間をつくりなさい」が何度も反響していた。


 仲間。友達とも違う、もっと深い響き。


 その言葉が、霧ヶ峰さんと檜山くんの姿と重なっていくようで——胸の中で、小さな熱が灯ったように感じた。


 席につき、教科書を開いたものの、僕はほとんど内容を理解できていなかった。


 霧ヶ峰さんは姿勢よく黒板を見ている。その横顔は涼しげで、光に照らされた睫毛が繊細に影を落としている。


 一方で檜山くんは、姿勢を崩すことなく、細かくノートを取っていた。その落ち着いた筆の運びが、見ているだけで安心を与える。


 その空気はとても穏やかで、転校初日の不安を少しだけ忘れられるくらいだった。上野先生の落ち着いた声や、音楽のように流れる英語の発音が心地よかった。


 しかし、その静けさは、突然破られた。


 二時間目の途中。教室後方の扉が勢いよく開く。風がひゅっと教室へ流れ込み、黒板近くの紙がふわりと揺れた。


 誰もが振り向いたその先に——ひとりの少年が立っていた。


「悪い、寝坊した」


 その声は軽い。けれど教室の空気を自然と支配してしまうような、絶対的で不思議な響きを持っていた。黒髪は少し乱れているのに、妙に絵になる。制服の着崩し具合もラフなのに品を損ねない。


 僕は目を何度も瞬いた。彼の全身が——光輝いているように見えた。呆然と彼を見つめていたが、クラスの女子たちが一斉に声を上げだしたので我に返る。


「雪村(ゆきむら)くん、おはよー!」

「来ると思ってたー!」

「今日って部活見に来る日じゃなかった?」

「あとで話あるんだけど!」


 彼女たちの声は一斉に華やぎ、教室の色が一瞬明るくなる。


——まるで彼が入ってきたことで教室の“温度”と“色”が変わる。そんな感覚だった。


 初めて見るはずなのに懐かしい。


(……何だ、この感覚は)


 なぜだか僕の胸は、強く脈打った。


 同年代の男子という枠に収まらない。気怠い歩き方、ラフな物腰、そして底知れない圧がある。

 ひと言で言うなら——普通じゃない。


 強くそう思った。

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