サイダーの泡が弾ける前に
むめい
サイダーの泡が弾ける前に
七月の教室は、微かにプールの塩素と埃の匂いがした。
放課後の気配が濃厚に漂う午後四時半。西に傾いた太陽が、窓際の席を焼き尽くすように照らしつけている。
古びた扇風機が首を振るたびに、生ぬるい風が私の前髪を揺らし、そして彼女の白いブラウスの袖をふわりと膨らませた。
「……ねえ、溶けちゃうよ」
窓の外を眺めていた彼女が、不意にこちらを向いた。
逆光で表情はよく見えない。けれど、その声は炭酸が抜けたサイダーのように気怠げで、どうしようもなく甘かった。
視線を落とすと、私の机の上で、コンビニで買ったアイスが汗をかいている。
「ああ、忘れてた」
「もったいない。一口ちょうだい」
彼女は身を乗り出し、私の手からアイスの棒をひょいと奪い取った。
パク、と小さな口が開く。薄い唇が冷たい氷を食む音が、やけに鮮明に鼓膜を叩いた。
心臓が、変な音を立てて跳ねた。
彼女――水瀬は、いつだって境界線の上にいる。
友達と恋人の、子供と大人の、日常と非日常の。そのあわいに立って、悪戯な猫のように私を翻弄する。
「ん、生き返る」
水瀬は満足げに目を細めると、また窓の外へと視線を戻した。
窓枠に切り取られた空は、青と茜色が混ざり合うグラデーションを描いている。校庭からは、野球部の掛け声と、金属バットがボールを弾く乾いた音が断続的に響いていた。遠くで鳴く蝉の声が、世界の輪郭をあいまいに滲ませていく。
私は、横顔を見つめたまま動けなかった。
夕陽に透ける栗色の髪。長い睫毛が落とす影。首筋に光る一粒の汗。
そのすべてが、泣きたくなるほど綺麗だったからだ。
(好きだ、と言ってしまえば)
喉元まで出かかった言葉は、熱を持った塊となって胸の奥につかえている。
この関係を壊したくないという臆病さと、このまま触れられない距離で終わるのかという焦燥感。二つの感情が、私の内側でせめぎ合っていた。
「ねえ」
「ん?」
「……もしさ、私が遠くに行っちゃったら、どうする?」
唐突な問いかけに、思考が停止する。
水瀬は私を見ない。ただ、窓ガラスに映った自分自身を見つめているようだった。
「……どうするって、別に。LINEくらいするだろ」
「そっか。そうだよね」
彼女は短く笑った。その笑顔が、どこか諦めを含んでいるように見えたのは、夕暮れの魔法のせいだろうか。
本当は、「どこへも行くな」と言いたかった。「俺も一緒に行く」と言いたかった。
でも、高校二年の夏は、あまりにも無力だ。私たちには、自分たちの未来を選ぶ力さえ、まだ心許ない。
キーンコーン、カーンコーン……。
下校時刻を告げるチャイムが、廊下のスピーカーから割れた音で流れ出す。
魔法が解ける合図だ。
「帰ろっか」
水瀬が机から鞄を取り上げる。
「うん」
私は、溶けかけたアイスの棒をゴミ箱に捨てた。
甘いバニラの香りが、指先にほんのりと残っている。
言えなかった言葉の代わりに、胸の奥で弾けた痛みだけを抱えて、私は教室を後にした。
昇降口で上履きからローファーに履き替え、つま先を踵(かかと)でトントンと鳴らす。
重い鉄扉を押し開けると、むっとしたアスファルトの熱気が顔を撫でた。
「……やっぱり、まだ暑いね」
水瀬が眩しそうに目を細め、鞄を背中に回す。
校舎の影が長く伸びて、グラウンドを半分ほど飲み込んでいた。私たちは影を踏まないように、光の残る場所を選んで歩き出す。
並んで歩く距離は、いつも拳二つ分。
近づけば触れてしまいそうで、離れれば他人のようで。この微妙な隙間こそが、私たちの精一杯の聖域だった。
坂道を下る途中、通り過ぎる車のヘッドライトが淡く灯り始めていた。
会話はない。
けれど、沈黙は苦痛ではなかった。隣を歩く彼女の呼吸のリズム、スカートが擦れる微かな音、シャンプーの残り香。それだけで、世界は十分に満たされていたからだ。
ただ、さっきの教室での言葉が、喉に刺さった小骨のように取れない。
『遠くに行っちゃったら、どうする?』
あれは気まぐれな冗談だったのか、それとも――。
「あ」
不意に、水瀬が足を止めた。
釣られて私も立ち止まる。そこは、街を見下ろせる高台のガードレール沿いだった。
眼下には、ミニチュアのような街並みが広がっている。家の窓に一つ、また一つと明かりが灯り、それが夜の海に浮かぶ光の粒のように見えた。
「見て。一番星」
彼女が指差した先、群青色に染まりかけた空に、頼りなげな光が一つ滲んでいる。
「……本当だ」
「ねえ、知ってる? 金星ってね、地球の兄弟星なんだって」
水瀬は空を見上げたまま、独り言のように続けた。
「大きさも重さも似てるのに、環境は全然違う。近くて、遠いんだよ」
その横顔があまりに切なくて、私は衝動的に口を開いていた。
「水瀬」
「ん?」
「行くなよ」
言ってしまった。
心臓が早鐘を打つ。蝉の声が一瞬止んだ気がした。
彼女がゆっくりとこちらを向く。大きな瞳が、私を真っ直ぐに射抜いた。
「……どこに?」
「遠くに。俺の知らない場所に」
子供じみた我儘だということは分かっている。それでも、この言葉を飲み込んでしまえば、二度と言えなくなる気がした。サイダーの泡が消えて、ただの甘い水になってしまう前に。
水瀬は目を丸くして、それからふわりと笑った。
それは教室で見せた諦めの笑顔ではなく、もっと柔らかくて、泣き出しそうな笑顔だった。
「馬鹿だなぁ」
彼女が一歩、私に近づく。
拳二つ分の距離が、一つ分になる。
触れそうなほど近い距離で、彼女は私のローファーのつま先を、自分のつま先でコン、と軽く突いた。
「行くわけないじゃん。……君が、見つけてくれるなら」
その声は蚊の鳴くような小ささだったけれど、私の鼓膜には雷鳴のように響いた。
彼女の手が、迷うように揺れて、私の制服の袖を僅かに摘む。
布越しに伝わる微かな体温。
その熱が、私の理性を焼き切るには十分すぎた。
私は彼女の手首を掴もうとして――その細い指に、自分の指を絡ませた。
「……離さないよ」
水瀬の肩がびくりと跳ねる。
拒絶はなかった。代わりに、彼女の指が私の手を強く、痛いほどに握り返してくる。
街の灯りが滲んで見えた。
完全に陽が落ちた藍色の空の下、私たちは繋いだ手のひらの汗さえも愛おしく感じながら、ただ立ち尽くしていた。
明日になれば、また「友達」の顔をして教室で笑い合うのかもしれない。
けれど今、この瞬間だけは。
僕たちの時間は、永遠に閉じ込められていた。
サイダーの泡が弾ける前に むめい @Mumei7
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