第1章:灰色の記憶、色彩の目覚め
痛みが、ない。
それが最初の違和感だった。 俺は、細胞の一つ一つが崩壊し、霧散していく感覚の中で死んだはずだった。 帝国の城を溶かし、公国の軍を蒸発させ、己の命ですら焼き尽くして。 最後に残ったのは、リリアーナ様への謝罪と、焼けつくような後悔だけだったはずだ。
それなのに、なぜ。
「……ん……」
重いまぶたを持ち上げる。 視界に飛び込んできたのは、見覚えのある――あまりにも見覚えがありすぎる、シミだらけの天井だった。 カビと埃(ほこり)、そして湿った雨の匂い。 戦場の血なまぐささとも、焦げた肉の臭いとも違う。これは、俺が幼い頃に嫌というほど嗅いだ、貧困の匂いだ。
俺は跳ね起きようとして、バランスを崩してベッドから転がり落ちた。
「うわっ……!?」
視線が低い。 手をついた床の冷たさが、鋭く肌を刺す。 俺は自分の手を呆然と見つめた。 そこに在るのは、幾千の敵を斬り伏せた剣ダコのある武骨な手ではない。 小さく、白く、まだ何も掴んだことのない、子供の手だった。
「これは……まさか」
急いで部屋の隅にある、ひび割れた姿見を覗き込む。 そこに映っていたのは、栄養失調気味で頬がこけた、銀髪の少年の姿。 間違いなく、八歳の頃の俺だ。
「戻った……のか?」
心臓が早鐘を打つ。 夢か? それとも死に際に見る走馬灯か? いや、それにしては感覚が鮮明すぎる。足の指先の冷えも、空腹で鳴る腹の音も、すべてが現実を叫んでいる。
俺は廊下に出てボロボロの壁に掛けられた日めくりカレンダーを確認した。 『王国暦482年 5月12日』
息が止まりそうになった。 あの日だ。 俺の運命が決定づけられた日。 リリアーナ様がこの孤児院へ慰問に訪れ、俺が彼女の手を取ることになる日。
窓の外を見る。しとしとと冷たい雨が降っていた。 記憶の通りだ。この雨の中、彼女はやってくる。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。 神様とやらも、随分と粋なことをしてくれる。あるいは、あの大量虐殺の罪滅ぼしをしろということか。 どちらでもいい。
俺は胸の前で拳を握りしめた。 魔力を確認する。 体内の魔力回路(パス)は細く、未熟で、淀んでいる。一般人の子供レベルだ。 だが、その制御方法は、俺の魂が覚えている。 世界最強の魔導士として極めた魔力操作の感覚。
意識を集中する。 大気中のマナを肺に取り込み、体内で精製し、循環させる。 ギチリ、と血管が軋む音がした。 器(からだ)が小さすぎる。全盛期の魔力を流し込めば、この体は風船のように破裂するだろう。 だが、今の俺なら「最適化」ができる。
「……身体強化(フィジカル・ブースト)、同調率1%」
わずかな魔力を全身に行き渡らせる。 重だるかった子供の体が、羽のように軽くなった。 今の俺は、英雄としての力は失っている。しかし、英雄としての「技術」と「知識」、そして何より――
「守ってみせる」
俺は鏡の中の自分を睨みつけた。 あの悲劇は二度と繰り返さない。 公国の裏切りも、帝国の侵略も、全て知っている。 誰が敵で、誰が味方か、それも全て分かっている。
リリアーナ様。 前世では、貴女の隣に立つために、ただ強い騎士になろうとした。 だが、それでは足りなかった。 騎士としての忠義が、俺の目を曇らせ、貴女を死地へと送り出してしまった。
だから、今度は違う。 俺は騎士になどならない。 国のためでも、正義のためでもなく。 ただ、貴女一人を生かすためだけの、「最強」になる。
「……待っていてください」
俺は汚れた服を整え、精一杯背筋を伸ばして部屋を出た。 雨音が強くなっている。 もう間もなく、彼女の乗る馬車が到着するはずだ。
二度目の人生、最初の一手が始まる。
***
孤児院の玄関ホールには、すでに院長や職員たちが慌ただしく整列していた。 俺たち孤児も、泥を落として一列に並ばされる。 寒さに震える年少組の子たちの手を握り、俺は静かにその時を待った。
やがて、重厚な馬車の車輪の音が聞こえ、扉が開かれる。 護衛の騎士たちに続き、濡れないように傘を差しかけられて入ってきた少女。
金色の髪。アメジストのような瞳。 まだ十歳で、あどけなさは残るものの、その高貴な輝きは周囲の空気を一変させた。
リリアーナ王女殿下。 俺の愛した人。俺が殺させてしまった人。
「ようこそお越しくださいました、殿下」
院長が深々と頭を下げる。 リリアーナ様は小さく頷き、俺たち孤児の方へと歩みを進めた。 その瞳が、一人一人を優しく見つめ――そして、俺の顔を見て止まった。
記憶通りなら、ここで彼女は俺の瞳に惹かれ、声をかけてくるはずだ。 『あなたが、一番強い目をしていました』と。 俺はその言葉を待った。 しかし。
リリアーナ様の瞳が、大きく見開かれた。 その愛らしい唇が、わななき、震えている。 まるで、亡霊でも見たかのような表情で。
え? 記憶と違う。 彼女は俺を見て微笑むはずだ。驚くのではなく。
「……シリウス?」
彼女の口から零れたのは、まだ名乗ってもいない俺の名前だった。
俺の思考が凍りつく。 なぜ、俺の名を知っている? まだ「名無しの孤児」のはずの俺を。 まさか。 あり得ない。だが、その瞳に宿る深い悲しみの色は、十歳の少女のものではない。あれは、俺と同じ――「喪失」を知る者の目だ。
「リリア……ナ様?」
「シリウスっ!!」
周囲の静止も、護衛騎士の驚愕も無視して。 彼女は泥だらけの床を蹴り、俺の胸に飛び込んできた。
「うわっ、殿下!?」 「シリウス、シリウス、シリウス……っ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
俺の首に腕を回し、彼女は泣きじゃくった。 甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。 それは記憶の中の彼女と同じ香りだったが、温もりは今、確かにここにある。
「熱かったでしょう……痛かったでしょう……? 私のために、あんな……あんな……ッ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の確信は衝撃へと変わった。 彼女も、覚えている。 俺が世界を焼き尽くした、あの地獄の光景を。
俺は呆然と立ち尽くしたまま、震える彼女の小さな背中に、そっと手を回した。
運命は、俺が考えていたよりもずっと優しく、そして複雑に絡み合っていたらしい。 俺たちは二人で、あの時空を超えて戻ってきたのだ。
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