第3話 保たれた天秤の上で.3

 桜寮には、すでに多くの生徒が集まっていた。ほとんどが顔見知りだったが、誰もが暗く、不安そうな表情を浮かべている。


 それに感化された神宿は、事態を飲み込めていなくても、どこか薄ら寒いものを感じ取って、眉を歪め、自分の腕をもう一方の腕で抱いた。


 すると、神宿の不安に敏感に反応した根上が、抱かれているほうの腕の掌を握った。


「大丈夫、心配いらないよ、つくし」


 依然として顔はこちらに向けない彼女だったが、声音は普段の何倍も温かみを帯びており、対象的に、緊張しているのか掌は酷く冷たい。


「覚えてるんだから、私たちは疑われない」


「う、疑われる…?」


 どういう意味なのだろう。


 その先を尋ねようとしたところ、正門のほうから女性職員たちと、白衣を着た見知らぬ一団が現れて、思わず言葉を失う。


 物々しい雰囲気をまとい、小声で何かを話し合いながら早足で歩み寄ってくる白衣の人々を見て、いよいよ神宿は異常事態が起こっていることに気が付いた。


 そして、一団の先頭にいた、銀縁眼鏡を掛けている女性のネームプレートを見たとき、根上が口にした、『出たんでしょ』という言葉の意味を理解した。


 ――…寄生虫感染防止課…。


 桜寮で、出たんだ。


 人の脳髄に寄生して、命以外の全てを奪い去る、恐ろしい寄生虫が…。


 私の知っている誰かが、感染したんだ。


 一体誰が感染したのか、この場にいないのは誰だろう、と集まっている生徒を見渡したところで、職員の一人が事態の説明を始めた。


 説明の内容は、大体予想していたとおりで、昨夜の定時放送の際、感染者と思われる人物が発見されたらしい。

 その日の晩のうちに、生徒は隔離されたと聞いて安心したが、今度は自分たち桜寮の人間の中から、他に潜伏感染者がいないかを調べるとのことだった。


 ざわめきが辺りを包み、不安と怯えに満ちた囁きが生徒の間を飛び交った。


 ずっと対岸の火事だと思っていたことが、気が付いたら目の前まで迫っていたのだ。驚かずにはいられない。


 落ち着きなさい、という職員の声に誰も従わず、次第にざわめきの声と、銀縁眼鏡の女性の眉間にできた皺が大きくなっていたときだった。


 隣でじっと佇んでいた根上が、腕を曲げただけの状態で質問した。


「私たち、昨晩の定時放送のときに、ちゃんと確認を行っているんですけど」


 急に彼女が声を上げた形になったので、神宿はおろか、そこにいたほとんどの人間が驚いて彼女を見つめた。


 根上は、初めは職員のほうを横目で見ていたのだが、かすかに首を横に振ると、銀縁眼鏡の女性に焦点を当てて話を続けた。


「それでも、確認するんですか?」


 疑われることなどない、それは確かなことだった。


 普段は根上の言葉など、冷ややかに扱っている生徒たちが、一斉に彼女の発言に同調し、声を上げた。


 こういうところが羊の群れなんだ、と羊の一匹である神宿は呆れながら思った。


 燃え広がる炎のように勢いを増す、批判と拒絶の声だったが、根上のほうをじっと観察するように見据えていた女性がぴしゃりと言い放ったことで、すぐに弱まった。


「当たり前だ、クソガキ。検査は必ず実施する」


 有無を言わさぬ、威圧的な態度だった。


「あの、緋垣さん、生徒たちも、不安なんです…。少しお言葉を…」


「状況も分かっていない連中が、余計な口を挟まないでいただきたい」


 職員への態度を鑑みるに、緋垣と呼ばれた女性は、こちらが子どもだと思って見下している、というわけではなさそうである。

 むしろ、他人全般を見下すような傲慢さが感じられていた。


 緋垣の言葉で、水を打ったように静まりかえっていた生徒たちだったが、やはり、根上だけは違った。


「説明も怠っておいて、状況の把握もクソもないんじゃ?」


「ちょっと、菜種…」


 これ以上、口ごたえするとロクなことにならない。そう判断した神宿は慌てて根上の肩を揺すったが、すでに遅く、緋垣はカツカツと足音を立てて根上の前に仁王立ちした。


 肌や皺の感じから、年齢は老けていても、三十代半ばといったところだろうが、眼鏡の奥で鈍く光る眼差しは、普通そのような年齢層には見られぬものだった。


 神宿は、その目つきを横から見ているだけで、無意識に顔を逸らしたくなる恐ろしさを覚えたのだが、根上は表情一つ変えずに睨み返すだけである。


「お前、怪しいな」


 ドキリ、と根上ではなく、神宿の心臓が大きく跳ね上がった。当の本人は涼しい顔をしているが、大事な幼馴染が疑われたことが酷く心配だった。


「あの!」


 咄嗟に言葉を発してしまい、自分のことながら混乱している最中に緋垣から睨まれ、さらに頭が真っ白になる。


「な、菜種は違います。本当に…。あ、私、彼女と同室で、幼馴染なので、ちゃんと質問の答えとかも、その…」


 沸騰するのではというほど熱くなる体。


 緋垣のものだけではなく、周囲の視線も、そして、隣に立つ菜種の視線も感じられ、不安さと恥ずかしさでいっぱいになった。


「何だ、お前」


 低い声でそう聞いた緋垣が、体をこちらに向ける。


 恐ろしく威圧感のある佇まいだ。身長なら、私のほうが高いと思うのに。


 自分で舞台にしゃしゃり出たくせに、体が硬直して、指先と膝がわずかに震える。


 舞台袖に引っ込むことも出来なくなった駄目役者の私の前に、すっと、庇うように根上が移動した。


「やめてくれませんか。つくしが怯えてる」


「ほぅ、さっきからいい度胸だな、お前」


 じっと根上を見下ろす視線から逃れることが出来て、神宿は内心ほっとしていた。だが、すぐに庇おうとしていた根上に庇われたのだと気づいて、強い自己嫌悪に苛まれた。


 不安と情けなさをかき消そうと、ぎゅっと繋いだ根上の手を握る。


 根上はそれを受けて、半身になって神宿に向き直ると、酷く優しい声で言った。


「つくしは心配しすぎ」くるりと、再び緋垣に向き直る。「この人、私は違うって分かってて、脅してるだけだから」


「え?」


 どうしてそんな楽観的なことが言えるのだろう、と不思議になるが、根上が何の根拠もなしにそんなことを口にするとも思えなかった。


「どうしてそう思う?」と緋垣が問う。


 その問いかけに、答えるか答えまいか、頭の中だけで逡巡するように、無言の時間を作った根上は、ややあって、小さくため息を吐いた。


「…私は、寄生虫に感染した人を見たことなんてないから、あくまで想像だけど…」


「言ってみろ」


「感染した人が、今の私みたいな態度を演じられるんだとしたら…。もう人間より、虫のほうが多くなってるんじゃないの?」

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2025年12月22日 18:00
2025年12月23日 18:00

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