第2話 保たれた天秤の上で.2
我々の社会に、特異な寄生虫による奇病が姿を見せてから、もうかれこれ五年ほどになる。
数十センチほどの細長い寄生虫が、人の脳髄に寄生し、脳を一時的な機能不全にまで陥らせ、完全にコントロールを奪ってしまうこの病気は、世間に情報が公開された当初は、まるで出来の悪い映画みたいだと感じた。
だが、次第にあちらこちらで罹患者が現れ始めると、社会全体がある種のパンデミックに陥った。
ここでいうパンデミックとは、文字通りの意味ではない。実際、患者の数は全人口のほんのごく一部にしか満たず、世界的感染とは程遠かった。
感染が広まったのは、恐怖という病だ。
奇病そのものは、虫を媒介にしなければならない以上、大した感染力を持たなかったが、恐怖はその限りではなかった。
寄生虫による見知らぬ病は、人々の生活を脅かすのに十分な恐怖を与えた。
当時の政府はその対応に追われることになったわけだが、幸いにも専門家が、対策を早期から打ち立てたことで、実質的な被害とその拡大は未然に防ぐことが出来ていた。
しかし、その対応策についても根本的な部分を解決するには至らないものだった。
この病は、発症し、進行すると、記憶がまるでなくなってしまう。当然ではある、コントロールしているのはもうその本人ではなく、ただの寄生虫なのだから。
そのため、罹患しているかどうかは、多少の関係性を持った周囲の人間が、質問などして確認すれば明白であった。
さらに、その感染経路が特別さも、奇病が蔓延しない原因の一つといえるだろう。
重度の粘膜感染――つまり、性行為ほどの接触を図らなければ、虫が増殖することはないという点だ。
行為の安全性を高め、感染防止を図るために国営放送で、夜の十一時に確認のための放送を流す。ラジオだって必ずその時間には放送が流れる。
決まりに従っていれば、そうそう簡単に自分が感染するということはない。
そう、対岸で燃えている火という認識にすぎなかった。
一昔前に、テレビの向こうで延々と繰り返されていた紛争と同じだ。
あくまでどこか、他人事。
最近は、誰もがそう思っており、神宿つくしもその一人だった。
だから、友だちと大学の講義を受けているときに、急に休講になったところで、まさか例の寄生虫が原因だとは考えもしなかった。
眠そうな目で講義をしていた初老の教授が、駆け込んできた若い男性職員の話を、体を折り曲げて聞いていた。
すると、二人は何事かを眉をひそめて話し合った後、男性職員のほうは慌てた様子で教室を出て行ってしまった。
一体どうしたのだろう、と教授のほうを見ていると、彼はマイクを通じしゃがれた声で説明した。
「えー、今講義を受けている生徒の中に、桜寮の方はいますか?」
自分たちが通っている大学は、全寮制だった。
かつては珍しかったが、寄生虫が姿を現した今の時代になってからは、特段珍しいものではなくなっていた。
言い方は悪いが、常に二人一部屋で互いを監視し合うことで、感染のリスクは最小限までに抑えられる。さらに、同性同士でルームシェアするため、結果的にそうした行為が起こりうる可能性も低くなった。
教授は、誰からの反応もないのを確認すると、少し苛立った様子で口を開いた。
「桜寮の生徒は、手を上げてください。誰もいないなんてことはないでしょう」
神宿は、不穏な気配を感じ、桜寮の人間ながらも、手を上げるかどうか躊躇してしまった。上げなかったところで、どうせ後でバレるのだが、なんとなく、その勇気がなかったのだ。
自分以外の誰かが手を上げるのを、桜寮住まいのみんなが期待しているだろう最中に、最前列に座っていた、小さな背格好で、肩までの短い髪をした生徒が片手を怠そうに持ち上げた。
菜種…。
見慣れた後ろ姿に、少しだけ自分が恥ずかしくなりながら、彼女に続く形で手を上げる。
こういうとき、菜種は凄い。
周囲と足並みを揃えない性格は、基本的には彼女の社交性の低さと孤独にスポットライトを当てるわけだが、群れるばかりの羊たちの中において、たまに、一際強い輝きを放つときがある。
もちろん、今回のような場合に限らない。
以前、自分が痴漢に遭っていたときだって、怯む様子もなく止めに入り、うだうだ言う相手を得意の毒舌で黙らせ、警察送りにするということがあった。
外では私と絡みたがらない菜種だったが、誰よりも私のことを考えてくれていると分かっていた。
きっと、あの人より。
さすがは私の幼馴染、と心の中で鼻高々としながら、教授の指示に従い、教室の外に出る。立ち上がり、教室を出るまでの間、自分に向けられていた好奇の目が少し恐ろしかった。
一緒に講義を受けていたメンバーの中で、自分だけが桜寮だったため、教室を出た途端に一人になったものの、すぐに根上の姿を探し出し、走り寄った。
どうやら教室では、まだ出てきていない人がいないか尋ねているらしい。
確かに、今教室の外にいるのは五人ばかりだったので、絶対にだんまりを決め込んでいる生徒がいるはずだった。
彼女らが出て来るまでと思い、並んだ根上に話しかける。
「一体何があったんだろうね」
「…出たんじゃない」
こちらをチラリとも見ようとしない根上は、そう、ぼそりと呟いた。
「出た?」意味が分からず、小首を傾げる。「妖怪か何かが?あ、変質者か」
神宿の的外れな発言に、はあっ、とため息を吐いた根上は肩を竦めて天井を見上げた。
それは、呆れているときの根上の癖だったので、自分がトンチンカンなことを言ったのだと察する。
結局彼女は、桜寮に移動するときになっても、それ以上何も教えてはくれなかった。
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