保たれた天秤の上で
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第1話 保たれた天秤の上で.1
刻まれた文字の美しさを、目で追う日々を続けている。
紙の上を滑るように流れていくストーリーは、いつだって自分の孤独を癒やした。
いや、違うな。孤独は増す一方ではあるものの、その質を変化させる、といったほうが正しいかもしれない。
炬燵の中に放り込まれた、弱々しい足をこすり合わせながら、新書サイズの物語に没頭していたのは、背が低く、線の細い女性だった。
大学寮の一室に住み、中身のない講義を聞かず、本ばかり読んでいる日々を過ごす彼女――
室内は、ファンシーな雑貨で溢れかえっており、ポールスタンドに派手でもなく、かといって地味でもないような帽子やバッグが掛けられている。
もちろん、それらは根上のものではない。
物心つくまでは長かった後ろ髪をバッサリと切り捨ててしまったように、彼女は必要だと感じたもの以外は自分の周りに置かなかった。
服も一週間着回せるだけの量を揃え、実用性のないものは一切買わない。
そんな彼女が住んでいる部屋が、どうしてこうも形だけにこだわったような小物雑貨で溢れているのかというと…。
ガタリ、と廊下のほうから音がする。そのまま間を置かず、足音が近づいてくる。
廊下とリビングを繋ぐ扉が開かれたことで、静まり返っていた部屋の中から静寂が追い出される。
桜色のパジャマに長い手足を包ませた彼女は、本を読み耽っているフリをして、相手の様子を窺っている根上を見て、呆れたような声を上げた。
「菜種ったら、また髪も乾かさずに読書?風邪をひくわよ?」
そう言って、根上の正面に座り込んだ彼女は、
根上と神宿は、幼稚園生時代からの付き合いで、俗に言う幼馴染だった。
「ひかないよ。私、体だけは強いの知ってるでしょ」
脱衣所でもう乾かしたのだろう。神宿の綺麗な茶色で染めたセミロングは、わずかな湿り気を感じさせるだけだ。
自分のことに無頓着な根上と、世話好きな神宿は昔から相性が良かった。
凪いだ諦観の中でじっと本を読み続ける根上と、それに手を差し伸べ、身の回りの世話をしてあげる神宿だったが、それは二十年近くの時間が経った今でも、変わらないままだった。
「そういうことじゃないの。もう、女の子なんだから…」
神宿は炬燵にも入らずに座っていた状態から立ち上がると、脱衣所からドライヤーを持ってきて、ぐるりと根上の背に回った。
ドライヤーのけたたましい稼働音が鳴り始めると同時に、神宿のしなやかな指先が根上の髪をなぞる。
「菜種、もうちょっと自分のこと、気にしようね」
耳元で囁かれる言葉は、ドライヤーの騒々しさよりも遥かに明瞭に根上の脳内に響いてきた。
声が漏れそうになるのを我慢しながら、じっと、本を読んでいるフリを続ける。
先ほどから全く頁が進んでいないことにも気が付かない神宿は、どこか満足そうに小言を呟きながら、髪を乾かしていた。
それが終わったところで、神宿は根上の隣に座り、炬燵にその長い足を両方とも突っ込ませた。
お風呂上がりらしい、温かい肌が直接触れ合い、思わずびくりと体が反応する。
「あ、ごめんね。冷たかった?」
悪びれる様子もなく謝罪を口にした神宿は、ぴったりと寄り添った距離を離すこともないまま、テレビの電源を点けた。
「いや、別に…っていうか、近い。向こう側に座りなよ」
「いいじゃない、今更。私と菜種の仲なんだし」
「ただの、腐れ縁」
「はいはい。照れ屋なんだから」
ついつい嬉しくなっていた内心を悟られたような気がして、口を尖らせ抗議する。もちろん、彼女はこんなささいな反抗なんか気が付きはしない。
そうして、根上は読書、神宿は夜のテレビ番組鑑賞をして、時間を潰していると、不意に今まで騒がしかったテレビが静かになった。
「あ」と声を上げた神宿。
壁に掛けてある時計を見上げると、時刻は夜の十一時ぴったりだった。
あぁ、もういつもの時間か。
本を閉じ、面を上げて神宿が見ているテレビ画面を一緒に見つめる。
この時間が始まると、何故かお互いに黙ってしまう。毎日、毎日同じ内容の放送なのだから、聞く必要などないのに、ついつい耳を傾けてしまうのだ。
おそらく録画した放送をこの十分間、繰り返し流しているのだろう。そうとしか思えない、コピー&ペーストされた放送だ。
それを頭の中から追い出して、神宿の足を炬燵の中で軽く蹴る。
「今日の、始めるよ」
「…そうだね」
互いに向き合う。
狭い炬燵の中なので、上半身を少しだけねじって向き合う形になる。
神宿の澄んだ瞳が鏡となって、自分の無感情で濁った瞳が映り込む。
どうしてこうも、彼女は私を真っ直ぐ見てくるのだろうか。
…いや、不思議に思うべきなのは、これだけ真正面から私に向き合ってくるのに、何も気付けないという鈍感さこそだろう。
最初は、恋人たちがキスをするときは、こんなふうに静かに見つめ合うのかもしれない、などと夢想したものだ。
最近はようやく慣れてきたが、それでも、心の準備が必要ではある。
そもそもが、長年片思いしている相手と見つめ合う、という行為自体が心臓に悪い。
ごほん、と芝居がかった様子で神宿が口火を切る。
「私の嫌いな食べ物は?」
「生野菜全般」
間髪入れずに答え、今度はこちらが尋ねる。
「高校の卒業式のとき、学年で一人だけ号泣してたのは?」
「やだ、ちょっとぉ、それ私じゃない」
「当たり。次どうぞ」
自分の恥ずかしい過去を日々のルーティンに利用された神宿は、ムッとして、何とか意趣返しをしてやろうと思考を巡らせているようだった。
「じゃあ、幼稚園のときに書いた、菜種の将来の夢は何でしょう」
「は?知らないよ、そんなの」
「あー、ずるいわ。真剣に考えて」
そんなことを言われても、覚えていないものは覚えていないのだから仕方がない。
ただ、ここで、知らないの一言で押し通しては、このルーティンの意味が完全に無くなってしまう。
今も昔も、自分の将来なんてものに何の期待を抱いたこともない。
あるのは、静かな諦めと、ならばせめて、という思いだけ。
こんな自分だから、当時も、やっぱり適当に答えたのではないだろうか。
その年頃の女の子が口にしそうなことを列挙する。
「花屋か、ケーキ屋」
「ぶぶー」と満足そうに口元を緩めた神宿が言う。
彼女には、根上が答えられないことが分かっていたようだ。
「悪いけど、本当に覚えてないから、次に行って」
「え、答え、気にならない?」
「ならないよ」
どうせ適当に答えたものだし、それを知っても、今の私には何の影響もない。
しかし、それでは神宿は不服だったようで、頬を膨らませて無言を貫いていた。
そんな彼女を横目で確認した根上は、小さくため息を吐きながら、相手の意向に沿うことを決めた。
「はぁ…。で、何だったの」
ぱあっと明るい表情で笑った彼女が口を開く。
「えぇ、どうしようかなぁ」
「あっそう。それじゃあ、もういいよ」
「待って、待って!ごめんって」
「あのさ、もったいぶらずに言いなよ。どうせ下らないんでしょ」
心底面倒そうな口調で、根上が肩を竦め、視線を逸らす。
実際、自分に関する情報など、彼女はどうでもよかった。
神宿は、顔を根上の耳元に寄せると、とっておきの秘密を口にするかのように、両手で自分の口を覆った。
えっとね、と囁かれる声の振動にぞくりとするも、絶対に表情には出さない。
ある意味、これは自分の意地だ。
神宿がこちらの気持ちに気が付かない以上、自分も情けない姿を相手に晒すつもりはない。
それが一体、何の意味を持つのかは分からないが、プライドなんてものは、大抵このように形ばかりで役に立たないものである。
ぼそぼそと、神宿が続ける。
「お嫁さん」
自分からは到底想像もつかない単語を聞いた瞬間、根上は眉間に皺を寄せずにはいられなかった。
額に手を当てながら、奇妙な呻き声を漏らした根上は、「やっぱり、聞かなきゃ良かった」と呪詛のように低い声で吐き捨てた。
「し・か・も」
何がそんなに面白いのかと不思議になるくらいの満面の笑みだった神宿は、一音ずつハッキリと区切った。
これ以上、まだ何かあるのか。
辟易した気持ちで、ここまで来たら全部語るまでやめないつもりだろうな、と神宿を見つめる。
「私の『お嫁さん』」
ドキリ、と鼓動が強くなる。
飲み込み損ねた唾が、喉を詰まらせようとゴクリと鳴った。
至近距離で相まみえた、彼女の吸い込まれそうなたれ目に、得も言われぬ感情が宿っているのを確認した根上は、奥歯を噛み締めるようにして押し黙り、俯いた。
あぁ、本当に…。
聞かなければよかった。
「…あ、そう」
「もう、それだけなの?」とつまらなさそうにぼやく彼女を見返す。「馬鹿みたい、っていう感想は浮かんだ」
「可愛いじゃない。昔から私にべったりだった菜種らしい」
「昔から、って何。今は、別に違うし」
「髪を乾かしてもらってる時点で、べったりだと思うわ?」
舌打ちをして、馬鹿なことを言うなよ、と心の中だけで過去の自分を罵る。
すると神宿は、興味がないフリを演出していた根上の左側面に、急にぴったりと体を寄り添わせてきた。
意地の悪い笑みは、彼女が悪戯を思いついているときに必ず浮かべる表情だ。
「ね、今からでもなってみる…?」
「はあ?」
「私のお嫁さん」
わざとらしく色っぽい口調に変えて発せられた言葉に、根上は再び呼吸が詰まりそうになるのが分かった。
冗談だ。こんなものは。
彼女は、私をからかって遊んでいるだけ。
私が無反応なのを、知っている。
真に受けないことを知っているからこそ言える冗談なのだ。
…あるいは、またそういう時期なのか。
ここでもしも、私が心の赴くままに答えたら、彼女はどんな顔をするだろうか。
そこまで考えて、根上は神宿に気付かれない程度に、自嘲気味に笑った。
無駄だ。やる勇気のないことを考えても――起こりもしないことを考えても、時間の無駄でしかない。
根上は一つ大仰に息を吐き出すと、「馬鹿言ってないで、最後までやってから、さっさと寝るよ」と呟いた。
神宿は、ドライさを装った根上とくっつけていた体を離し、ルーティンの続きを始めた。
三問目の質問は、互いの部活動に関することだった。もちろん、過去の話だ。
寝る前の作業を終えて、ちらりと時計を一瞥する。
時刻は、十一時十四分。
そろそろ、定時放送も終わり、自動で切り替わって元の番組が流れるだろう。
勝手に始まり、勝手に終わる。
まるで、私たちの一日みたいだ。
彼女らは、ファンシーさとシンプルさで分割された二段ベッドのそばに移動した。
そこで眠りに就く準備を整えている二人の後ろで、アナウンサーがお決まりの台詞で定時放送を締めようとしていた。
『みなさん、愛する家族や恋人、友人は、貴方の知っているままでしたか?質問の答えから、少しでも違和感を覚えられた方は、すぐにでもこちらの番号にご連絡ください。寄生虫の早期発見が、貴方の大事な人たちを救うことに繋がります』
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