スカラベとカップ麺 ーSide:娘ー

 目を覚ましたとき、私はまだ、死んでいるはずだった。


 胸は動かない。

 息も、鼓動もない。


 それなのに、世界は暗闇のまま、続いていた。


 石の匂い。

 長い眠りの重さ。

 乾いた包帯が、私の体を抱きしめている。


 仮面の内側で、私は見ている。


 ――人がいる。


 知らない服。

 知らない声。

 けれど、その声は、怖くなかった。


 低くて、少し疲れていて、それでも、やさしい。


 彼は、私の棺の前に、何かを置いた。


 丸い器。

 白くて、軽そうで、湯気が立っている。


 匂いがした。


 知らない匂い。

 甘くて、あたたかくて、胸の奥――もう何もないはずの場所が、きゅっとなる。


 彼は、私に向かって話す。


 私は答えられない。

 でも、わかる。


 これは――食べ物。


 供物カーだ。


 父が、生きていたころ、私のために置いてくれたものと同じ。


 私は、手を伸ばす。


 熱い。


 思わず引っ込めると、彼は慌てて、謝るように手を振った。


 怒られたのではないと、わかる。


 彼は、私を傷つけたくない。


 細い棒を取り出す。

 見たことのない道具。


 私は、首を傾ける。


 彼は少し困って、それから笑った。


 匙を探すように。


 ああ。

 この人は、不器用だ。


 父と、似ている。


 彼は、私の口元に、食べ物を運ぶ。

 仮面の隙間から。


 息を吹きかける。

 冷ます、ということらしい。


 私は、くわえる。


 けれど――


 できない。


 吸えない。

 飲み込めない。


 私は、息をしていない。


 彼は、しばらく黙って、それから、考えた。


 私は、器を持ち上げる。


 彼の真似をして、ゆっくり、傾ける。


 汁が、口の中に流れ込む。


 ――あ。


 あたたかい。


 体の奥に、何かが、しみこんでくる。


 彼は、ほっとした顔をした。


 私は、食べる。


 死んでいるはずの体で、それでも、食べる。


 包帯の中で、乾いていたはずの私が、少しだけ、やわらかくなる。


 私は、見つける。


 床を歩く、小さな命。


 丸くて、黒くて、つやつやしている。


 スカラベ。


 太陽を運ぶ虫。

 再び、生まれるしるし。


 私は、指さす。


 彼は、うなずく。


 踏まない、と言ってくれる。


 この人は、小さな命を、ちゃんと見る。


 それが、わかる。


 私は、麺を残す。


 長い。

 知らない形。


 彼は、黙って、切ってくれる。


 手つきが、迷わない。


 何度も、何度も、こうしてきた人の手。


 小さな子どもに。


 私は、思い出す。


 父が、私にしてくれたこと。


 不器用で、でも、必死で。


 食べさせてくれた。


 命を、くれた。


 彼は、話す。


 失った娘の話を。


 私は、聞く。


 言葉は知らない。

 でも、痛みはわかる。


 私も、早くに死んだから。


 私は、立つ。


 少し、ふらつく。


 彼の手を、借りる。


 壁を見る。


 文字。


 私の、言葉。


 私は、指さす。


「食べたい」


「供物」


 彼が、誤解する。


 少し、悲しい。


 違う。


 私は、急いで指す。


 ――サソリ。


 彼は、気づく。


 命の危険。


 私は、守る。


 彼は、生きていてほしい。


 そして、もう一度、指す。


「父」

「一緒に」

「食べたい」


 彼が、止まる。


 目が、潤む。


 伝わった。


 父と一緒に食べたかった。

 命をくれた人と。


 私は、彼を見る。


「私も」

「生きたい」


 言葉にできない願い。


 でも、彼は、受け取る。


 私は、残った器を差し出す。


 彼が、受け取る。


 食べる。


 生きる。


 その瞬間、スカラベが、壁の隙間に消える。


 彼が、見つける。


 通路。


 外へ続く道。


 私は、笑えない。

 泣けない。


 でも、わかる。


 これは、再生。


 死んだ私と、死にかけた彼が、一緒に、太陽へ向かう道。


 生きるために。

 食べるために。


 スカラベが、ちゃんと、導いてくれた。


 ――私は、もう一度、生まれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カップ麺とスカラベ【AIリライト版】 黒猫夜 @kuronekonight

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ