第9話 負け犬の遠吠え

真央との関係は、良好だった。

一夜を共にしたことはない。それでも、淳彦の心は満たされていた。


曖昧な関係のまま、気づけば半年が過ぎていた。


(このまま、結婚するのかな)

(花崎さんと、ずっと一緒にいられたらいい)


淳彦の中に、初めて「結婚」という言葉が芽生えていた。


真央と出会ってから、仕事への集中力はさらに増した。

見た目にも気を配り、生活も整えた。

すべては、彼女にふさわしい男でありたいという一心だった。


その日も、ジムに行こうと心に決めて会社を出た。


「淳彦!!」


聞き覚えのある声に、足が止まる。


「……春香?」


会社の前に、春香が立っていた。

明らかに、待ち伏せだった。


「ちょっと来て。話があるの」


有無を言わせず、春香は淳彦の手を掴み、人目の少ない場所へ引きずる。


(は? 何だよ、今さら)


「突然来て何なんだよ!」

苛立ちを隠さず声を荒げる。


「いい加減にしろよ。ストーカーか?」


手を振り払った瞬間、春香が静かに言った。


「……子供ができた」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


(……は? 子供?)


関係が終わって、半年が経っている。


「淳彦に言ったら『中絶しろ』って言われると思って。だから今まで黙ってた」


中絶可能な時期は、すでに過ぎていた。

それを知った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。


「……待って。え? 本当に俺の子?」


声が震える。


結婚?

春香と?

真央は?

俺の未来は?


「結婚はしないわ」


春香は、驚くほど冷静だった。


「その代わり、認知と養育費だけは払って。もう弁護士に頼んであるから」


淡々と、事務的に言い切る。


「じゃあね」


それだけ言い残し、春香は去っていった。


淳彦は、その場に立ち尽くすしかなかった。


――選ぶ側だったはずの人生が、

確実に、音を立てて崩れ始めていた。

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