第8話 負け犬の遠吠え

真央との約束の日。

淳彦はいつもより十五分も早く、集合場所に立っていた。

身なりも、髪も、時計も、完璧に整えてきたつもりだった。


「こんばんは」


声をかけられて振り向くと、パンツスーツ姿の真央が立っていた。

どうやら弁護士としての仕事帰りらしい。


「お仕事、お忙しそうですね」


淳彦は、少し申し訳なさそうに言った。


「不定期ですから。でも、やりがいがありますよ」


淡々とした口調。

そこに誇りが滲んでいた。

その姿が、やけに眩しく見えた。


ディナーの間、淳彦は完全に真央に夢中だった。

話題は知的で、感情を煽らない。

声も大きくない。無駄に笑わない。

食べ方も綺麗で、騒がしさが一切なかった。


――今までの女とは、明らかに違う。


「この後、もう一杯飲みませんか?」


まだ帰してしまいたくなかった。


「すみません。明日も早いので」


真央はそう言って、丁寧に一礼し、その場を後にした。


(……俺が、振られた?)

(この俺が?)


胸の奥が、ざわついた。


(他の女にはなかった……)

(いい……)


女に振り回されるなんて、有り得ない。

そう思って生きてきたはずなのに。


――どうしようもなく、惹かれていた。


ひとりで帰宅した部屋は、やけに広く感じた。

淳彦は、迷いなく真央にメッセージを送った。


「今日はお忙しい中、お時間を作ってくださり、ありがとうございました。

次は、真央さんの好きなワインが豊富なお店に行きませんか?」


繋げたかった。

必要だった。


――ピコン。


「是非、楽しみにしています」


それだけで、胸が満たされた。


こんな感覚は、初めてだった。


次の約束の日が、待ち遠しくて仕方なかった。


淳彦はまだ気づいていない。

この時すでに、

「選ぶ側」だったはずの立場が、静かに反転していることを。

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