第10話 負け犬の遠吠え

春香と別れたあと、淳彦がどうやって帰宅したのかは覚えていなかった。


(俺の子……?

認知? 養育費?)


現実味がなさすぎて、思考が追いつかなかった。


翌日も、仕事はまったく手につかなかった。

画面を見ても文字は頭に入らず、指は止まったままだった。


バタバタと足音が近づく。


「比村くん! 会長がお呼びだぞ!」


――会長。


かつては胸が高鳴ったその言葉も、今の淳彦にはただの雑音だった。


(会長……ああ……会長ね……)


「失礼します」


秘書に促され、会長室のドアが開く。


「…………っ」


淳彦は、言葉を失った。


会長の袴田の隣に座っていたのは――

真央だった。


「……なんで」


それしか、口から出てこなかった。


「比村くん、こちらに来なさい」


袴田は淡々と、向かいのソファを指さす。


「……はい」


足が重かった。

逃げ場は、どこにもなかった。


「蓮沼春香さんを、君は知っているね?」


袴田の声は、昨日までの柔らかさを失っていた。


「……はい」


視線を落としたまま答える。


「実はね、彼女は私の古い友人の――孫だ」


その瞬間、淳彦の中で何かが音を立てて崩れた。


(……終わった)


理解するより先に、絶望が広がった。


同時に、怒りが湧いた。


(騙したな……春香……

なんで言わなかった……)


その時、真央が静かに口を開いた。


「依頼人のご意向で」


淡々と、感情を一切挟まずに。


「出産後、DNA鑑定を行います。その結果をもって、認知の手続き。

その上で、成人までの養育費の一括払いを請求します」


法的に、正確に。

逃げ道を残さない言葉。


真央の目は、冷たかった。


そこには、

半年間、淳彦が「運命」だと信じた女の温度は、もうなかった。


――弁護士としての目だけが、そこにあった。


淳彦は、ようやく理解した。


選ぶ側だと思っていた人生で、

自分は一度も、選ばれていなかったということを。

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