地下室

晴れ時々雨

第1話

 地下室へ続く階段を下っていく。しばらく明かりのないところを壁伝いに降りていくと、ぱっと足元のセンサーライトが点った。それからは幾段かおきに、通り過ぎるたび点々とライトがつく。

 足を止めて後ろを振り返る。通過したところはもう既に闇に沈み、そこに何があったか判別できない。

 ふうと息をついてまた足を動かし始める。床近くを照らすだけの照度の灯りが、光源に近い壁の造形を浮かび上がらせている。

 頼りにして触れていたときは粗いコンクリートの感触だった壁が、いつの間にか布質の壁紙に変わっていた。そこに一定の間隔をおいて約30センチ四方の額縁が掛かっている。それが絵なのか或いは写真なのか、接近して直視してみてもわからない。それに、具体的に何が描かれているかもみえない。気持ち程度の明かりは、闇の深さを確認するためにあるようなものだ。

 気を取り直すように降りることに集中してみる。重力に従った降りる動作は疲労が少ないから正気を失うには正しい運動だろう。気分的には数軒分の地下階段を直進している。

 ランタンのバッテリーが切れた。だがまだつけていない。意識で手を確かめると、ランタンを持っていなかった。参加資格として、ここのドアを閉めたときに闇中に蒸発したのだ。そのとき、闇に霧散したランタンの気体を吸い込んだ。ポリエチレン樹脂、アルミニウム、銅、炭素マンガンアンモニウム亜鉛などが酸化せぬまま揮発した気体は、呼吸になんの支障も生じさせなかった。闇はあらゆる物質のなかだちになる。

 いつの間にか駆け下り始めていた歩調を慌てて取り戻す。闇は重力とも相性がいい。


 べちゃ

 靴が粘り気のあるものを踏んだ。どうやら階段の床室が変わったらしい。鈍くなった摩擦力で靴底が滑り、思わず壁に手をつくとこちらもぬるっとする。

 水気は不安を煽る。この暗さは、湿り気の正体を不安なものに決定づける。

 正体不明の粘液にまみれた手をズボンで拭く。水分でズボンの色が変わるが、手はまだベトベトしている。舌打ちをしそうになった。拭わなければよかった。あまり汚れを拡げたくない。

 しかし、軍用ブーツを履いてきて良かったと思った。変な話、自室の地下へ行くために選ぶ靴としてはいささか大袈裟と思えなくもない。がしかし部屋に突如現れた扉を開けてみれば地下に続く階段があったなんて、ましてやそこへ降りるだなんて、最低限の装備としてこれを選んだとてなんの不都合があるだろう。

 しかもこの靴はまだ外出で履いたことがないのだ。おろしたてと考えると、ちょっぴり恥ずかしいが。運命の引き合わせか、満を持したのだろう。

 すごく初歩的な事柄なのだが、自室はアパートの2階だったはずだ。午後のうたたねをベッドで過ごしふと覚醒すると、さっきまで壁だったところに四角いスジが走っているのに気づいた。直接確かめると、ドアだった。

 半覚醒かレム睡眠にしては常軌を逸したながさではある。そこが開くことと降下階段が伸びることを確認して数日後のことだ。


 視認困難な事象に直面すると、脳内補完担当細胞が活発化する。その組織は爆誕して即成体化し、エキスパートの働きをする。

 だから体についたぬめりを血液だと判定した。色が解らないなら、今ここで最適な色彩を適用するまで。黒い赤だ。自分の想像力は割と単純なのでどうしても闇の影響を受けてしまう。もしかしたら鮮血かもしれないが、それ以上はやはり視えない。

 ぐちょ

 いかつい靴が地面に埋まる。変化に驚き、またしても壁に手をつくと今度は植物のようなものが鬱蒼と生えている。それはねっちょりした水気を湛えつつ、ぞわぞわと腕までを包んだ。

 異様な感触にひとたび動作を止めてしまう。草のようなそれを芦かそんなようなものと解釈していたが、葉が丸みを帯びていて太い。おそらく直径にして3センチ、長さ20センチはある。細い管と言い換えるべきか。局所的な光に浮かび上がって見えた、びっしりと生えたそいつは1本ずつが蠕動していた。動きが動物じみている。

 歩行を止めた足にそれらがやわやわと絡まる。触れた場所に粘液を残しながら。

 吐精した自分のものでさえ、1秒後には温度を下げるというのに、この粘液はいつまでも乾いたりせず生ぬるさを保っている。そういえばここはなんの温度も感じない。

 この地下道はどこへ繋がっている。自分が感じているのは不安か、期待か。わからないが衝動の一種だということは間違いない。

 まるで食べカスになったような気分がする。

 だったら門を目指すしかない。


 後方から物音がした。振り向くと、センサーライトが移動しながら点滅している。

 誰かが階段を降りてきている。予想外の展開に心臓が痛いほど鼓動を強める。ここからライトまでの距離は相当ある。しかし点滅の速度がかなり速く、妄想の域を超えてはいないものの、移動に際する音(主に足音)が聞こえてきそうな具合なのだ。

 何となく、追いつかれることに焦燥したが、やはりそれが何なのか突き止めたい気持ちも無視できなくて、つい歩みを止めて目を眇めてしまう。

 些細な手がかりが欲しくて、闇に目を凝らし耳を澄ますと、かつこつと靴の踵のなる音が聞こえた。

 感覚的に、ハイヒールではないかと予測する。硬いが高い音だ。踵の細さを連想する。

 脳内補完細胞が活発化した結果、力関係の優位性に安堵した直後、細胞が見せる恐怖譚の象徴のあまりのリアルさに怖気が立った。

 触手路を早く抜けなければと、泥濘から足を引き抜きながら前身する。

 ア…オ…アォ…アァ…

 洞窟を抉るような不快な音波が後続者の声のようだと気づき、階段を駆け下りながらそろそろ観念するかと考えた。

 およそ人間界では聞き及ぶことのなさそうな声らしき音と高速ヒール音が切迫する。背中に突撃する、という予測を立てた頃、ふっと気配が消えた。

 振り返ったが何もない。センサーライトも自分の足元分だけが点灯した状態だった。

 なんだったんだ。でもまぁ退屈はしのげた。

 けれど自分が狂いだしたのかもしれない。

 なんの意外性もない。

 そりゃそうだろう。もうどれぐらいだ?階段を降り始めて。

 見てみろよ。今まで降りてきた階段なんてどこにもありゃあしない。辺りは軍用ブーツの他は真っ暗だ。もしかしたら降りてたんじゃなくて登ってたのかも。いや俺、ブーツ履いた足かも。それよりこれ全部夢かも、ってことが一番つまらないな。でも人間てつまるとこ、ありきたりに安心する習性があるから、それならそれでいいんです。

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