2.錨に触れる

 名前を交わしたあと、沈黙が落ちた。


 川の音は穏やかで、先ほどまでの違和感が嘘みたいに消えている。街灯の光も、水面の反射も、すべてが正しい位置に戻っていた。世界は何事もなかったかのように、きちんと機能している。


 それが、かえって不気味だった。


「……もう、大丈夫?」


 澪は、ようやくそう口にした。


 水無月碧は、澪を見ない。川を見つめたまま、短く息を吐く。


「大丈夫って、なにが」


 刺すような言い方ではない。ただ、線を引くための言葉だった。


「さっきの……その、影とか」


「見間違い」


 即答だった。

 あまりにも早くて、澪は言葉を失う。


「前から、こういうことがあるの?」


 問いかけると、碧の肩がわずかに強張った。


「……関係ないでしょ」


 拒絶は一貫している。けれど、碧はその場を離れない。澪の存在を振り払おうとはしない。その矛盾が、澪を足止めしていた。


 沈黙が続く。


 澪は、どうして自分がここに立っているのか、分からなくなりかけていた。知らない相手。関わる理由はない。危険だという直感もある。


 それでも、立ち去れない。


「……一人?」


 碧は、ようやく澪を見た。


 その目には、疲労が溜まっていた。眠れていない人間の目だ。澪はそれを、見覚えのあるものとして認識してしまう。


「……一人」


 碧はそう答えたあと、少しだけ視線を逸らす。


「ずっと?」


 問いが、意図せず踏み込んだものになる。


 碧は、口を閉ざした。


 澪は、これ以上聞くべきではないと分かっていた。代わりに、別の言葉を選ぶ。


「誰かに、相談した?」


 その瞬間、空気が変わった。


 碧の表情が、はっきりと強張る。拒絶が、今度は明確な恐怖を帯びていた。


「……やめて」


「病院とか、学校とか。そういうところなら――」


「やめてって言ってる」


 碧は一歩、後ずさる。


 同時に、澪の足元で、水音が不自然に跳ねた。川の流れが、一瞬だけ早まった気がする。街灯が、ちかりと瞬いた。


 澪は息を呑んだ。


 碧の周囲で、再び世界が歪み始めている。


「大丈夫だから」


 碧は言った。

 自分に言い聞かせるように。


「関わらないで。……普通に戻るから」


 普通、という言葉が、ひどく脆く聞こえた。


 澪は、反射的に一歩前に出ていた。


「待って」


 それだけで、歪みが止まる。


 水音が落ち着き、光が安定する。世界が、澪の動きに合わせて呼吸を整えたみたいだった。


 碧は、はっとしたように周囲を見回す。


「……なんで」


 小さな声だった。


 澪は、喉が渇くのを感じながら答える。


「……私がいると、落ち着くみたい」


 言ってから、しまったと思った。


 碧の表情が、一瞬で変わる。安心ではない。恐怖だ。


「それ、言わないで」


 鋭い声音だった。


 碧は、ぎゅっと鞄を抱きしめる。


「……そういうの、よくない」


 澪は、何が「よくない」のかを聞けなかった。代わりに、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。


 これは、偶然じゃない。

 自分は、今、何かの中心に立っている。


 その自覚が、遅れてやってきた。


「今日は……帰る」


 碧が、ぽつりと言う。


 澪は頷いた。


「うん」


 本当は、引き止めたい衝動があった。それが正しいかどうか分からないまま、飲み込む。


「……でも」


 澪は、言ってしまう。


「また、ここに来る」


 碧の動きが止まった。


「来なくていい」


 即答だった。


 けれど、その声には、先ほどの拒絶ほどの強さがない。


「……明日も、この時間?」


 澪は、確認するように言った。


 碧は、答えない。


 ただ、何も否定しなかった。


 澪が帰路についたあとも、胸のざわめきは消えなかった。部屋に戻り、端末を起動する。検索窓に、いくつかの単語を打ち込む。


 影のずれ。

 対人依存。

 都市 呪い。


 古い掲示板のログに、見覚えのない言葉が引っかかった。


 ――錨。

 ――離れると不安定化。

 ――単一対象。


 澪は、画面を見つめたまま動けなくなる。


 まだ、知らない。

 自分が「選ぶ側」ではないということを。


 それが、誰かを繋ぎ止める役割であり、

 同時に、縛られる役割だということを。


 川沿いで交わした、たった数分の会話が、

 もう戻れない地点を越えていたことを。

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錨葬 byousou @byousou

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