錨葬

byousou

1.錨になる前

 最近、世界の壊れ方が雑になってきている。

 朝霧澪は、そんなことを考えながら川沿いの遊歩道を歩いていた。


 都市再開発によって整備されたはずのこの一帯は、夕方になると妙に落ち着かない。街灯は規則正しく並び、監視ドローンの航路灯も正常に点灯している。それでも、光が届いていない場所があるように感じるのだ。地図には存在しない影が、現実の隙間に沈んでいる。


 気のせいだ、と笑える人間なら楽だっただろう。

 澪はそういうタイプではなかった。


 大学では環境学を専攻している。表向きは。実際には、異常気象や都市災害の裏側にある「説明しきれない現象」に興味があった。公式には偶発的な事故と処理される出来事が、ネットの片隅では別の名前で呼ばれているのを、澪は知っている。


 ――呪い。

 ――都市型怪異。

 ――世界のバグ。


 どれも眉唾だと言われれば、それまでだ。けれど、現実が少しずつズレていく感覚は、確かに存在していた。


 澪が足を止めたのは、護岸の少し先だった。


 制服姿の少女が、川を見下ろして立っている。高校生くらいだろうか。鞄を抱え、身動きひとつせず、水面を見つめている。その様子が、妙に気になった。


 声は聞こえない。

 それなのに、少女の唇は確かに動いていた。


 誰かと会話しているような、はっきりした口の形。だが、そこには誰もいない。川の流れと、風に揺れる水面だけがある。


 澪は周囲を見回した。通行人はいる。犬を散歩させている人も、スマートグラスを覗き込んでいる人もいる。誰も、その少女を気に留めていない。


 おかしい、と思った。


 次の瞬間、少女の足元で影がずれた。

 本人の動きより、ほんの一拍遅れて、影が追いつく。


 錯覚ではない。

 澪は確信した。


 世界が、あの少女の周囲だけで、噛み合っていない。


 声をかけるべきかどうか、迷ったのはほんの一瞬だった。関わらない方がいい。そう判断する材料はいくらでもあった。それでも、足は勝手に前に出ていた。


「……それ、見えてるの、私だけ?」


 少女の肩が、びくりと揺れる。


 ゆっくりと振り返ったその顔は、驚きよりも警戒に満ちていた。冷たい視線が、澪を射抜く。


「関係ないでしょ」


 拒絶の言葉。

 それでも、少女は立ち去らなかった。


 澪は距離を詰めすぎないよう、立ち止まったまま言葉を探す。助ける、という言い方は違う気がした。大丈夫、と聞くのも違う。


「……前から?」


 少女は一瞬、目を伏せた。


「……帰って」


 小さな声だった。怒りでも、恐怖でもない。ただ、疲れ切った響き。


 澪は、その場を離れるべきだと理解していた。理解していたのに、視線が外せない。少女の周囲で、空気がわずかに歪んでいるのが見える。水面が揺れ、音が遠のく。


 澪が一歩、近づいた。


 その瞬間だった。


 遅れていた影が、正しい位置に戻る。

 ざわついていた川の音が、嘘のように静まった。


 まるで、世界が深く息を吐いたみたいに。


 少女が、はっとしたように澪を見上げる。次の瞬間、無意識の動きで、澪の袖を掴んでいた。


 指先が震えている。


 少女自身が、その行為に気づいているのかどうか分からない。ただ、必死に何かを掴もうとしているようだった。


「……あ」


 少女は、慌てて手を離そうとする。しかし、力が抜けない。


 澪は動けなかった。

 胸の奥で、嫌な予感が広がっていく。


「……あなた」


 少女の声は、かすれていた。


「名前は?」


 名乗るべきかどうか、一瞬迷った。それでも、澪は答えてしまう。


「朝霧……澪」


 その名前を聞いた途端、少女の表情が、わずかに緩んだ。安心とも、絶望ともつかない顔。


「……水無月」


 それだけ言って、少女――水無月碧みなづきあおは、視線を落とした。


 澪は、その時まだ知らなかった。

 自分が声をかけたのが、ただの偶然ではなかったことを。


 それが、《錨葬》。

 たった一人を残して、世界を弔う呪いに選ばれた瞬間だったということを。

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