「婚約破棄だ!」と叫ぶ王子を無視して、ステーキを食べ続けたら隣国の皇帝に求婚されました

とらんきる丼

第1話:婚約破棄の舞踏会、ステーキの時間

 シャンデリアの煌めきが、磨き上げられた大理石の床に反射している。

 王宮の大広間は、着飾った貴族たちの熱気と高級な香水の香りで満たされていた。オーケストラが奏でるワルツの旋律に合わせて、色とりどりのドレスが花のように舞う。

 誰もが優雅な微笑みを浮かべ、社交という名の腹の探り合いに興じている夜だった。


 だが、私――エルンスト公爵家の長女、レティシアにとっては、この舞踏会における最大の関心事はただ一つだった。


(……素晴らしい)


 私は壁際に設けられたビュッフェ形式の食事エリアで、ある一皿を前に内心で感嘆のため息をついていた。

 皿の上に乗っているのは、分厚い牛フィレ肉のステーキだ。

 表面には食欲をそそる網目が焼き付けられ、ナイフを入れずとも分かるほどの弾力と柔らかさを秘めている。ソースは赤ワインとトリュフを煮詰めた濃厚なペリグーソース。芳醇な香りが鼻孔をくすぐり、公務や社交で疲弊した脳髄を直接刺激してくる。


 私は王太子の婚約者という立場上、本来であればフロアの中央で愛想を振りまくべき存在だ。しかし今日の殿下は「少し遅れる」との伝言を残し、姿を見せていない。

 これを好機と見た私は、エスコート役不在を理由に早々にダンスの輪を抜け出し、この至高の肉塊と対峙することを選んだのだった。


 右手にナイフ、左手にフォーク。

 カトラリーを握る指先に、ピアノを弾くときのような繊細な力を込める。

 さくり。

 抵抗なく刃が入った。断面からは微かにロゼ色の肉汁が滲み出し、湯気がふわりと立ち上る。


「では、いただきます」


 誰に聞かせるわけでもなく呟き、最初の一切れを口へ運ぼうとした、その時だった。


「――音楽を止めろ!」


 広間の入口から響き渡った怒号が、ワルツの旋律を断ち切った。

 指揮者が慌ててタクトを止め、不協和音を残して演奏が止まる。ざわめきと共に、何百という視線が一斉に入口へと注がれた。


 そこに立っていたのは、この国の第一王子であり、私の婚約者であるジェラルド殿下だった。

 彼は豪奢な正装に身を包んでいたが、金髪は少し乱れ、顔は興奮で紅潮している。そして何より、その腕には小柄で可愛らしい少女――男爵令嬢のミリアが、しがみつくように寄り添っていた。


 水を打ったような広間の中、ジェラルド殿下は大股で中央へと歩を進める。

 そして、まるで劇場の主役のように胸を張り、高らかに宣言した。


「レティシア・フォン・エルンスト! 貴様との婚約を、今ここで破棄する!」


 会場に衝撃が走った。

 貴族たちが息を呑み、扇で口元を隠しながら囁き合う。

「婚約破棄?」「まさか、この場で?」「隣の女性は……」


 その視線は、自然と「婚約破棄された哀れな令嬢」を探して彷徨う。

 そしてすぐに、壁際で一人佇む私へと集まった。


 私はフォークを、口元から数センチのところで止めていた。

 状況は理解した。

 婚約破棄。それは公爵家と王家との長年の契約を一方的に反故にする、重大な政治的決断だ。本来なら王と公爵を交えた密室での会議を経て、決定されるべき事項である。それを衆人環視の舞踏会で、しかも愛人を連れて叫ぶなど、愚行以外の何物でもない。


(……冷める)


 私の脳裏をよぎったのは、絶望でも悲嘆でもなかった。

 ただ、純粋な焦りだ。

 ステーキは温度が命である。最高の焼き加減で提供された肉も、時間が経てば脂が固まり、風味が落ちる。

 ジェラルド殿下の茶番劇に付き合っている間に、この最高傑作が劣化していくことだけは許容できなかった。


 私は迷わず、フォークの先にある肉を口に入れた。


 ――美味。

 噛み締めた瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。赤身の力強い味と脂の甘み、そこへトリュフの香りが絡み合い、えも言われぬ幸福感が脳を満たした。

 私は目を細め、ゆっくりと咀嚼する。


「……おい、聞いているのかレティシア!」


 返事がないことに苛立ったのか、ジェラルド殿下が叫んだ。彼はミリア嬢を引き連れたまま、私の方へとずかずかと歩み寄ってくる。


「貴様の罪は明白だ! 未来の王妃という立場にありながら、その権力を笠に着て、清廉潔白なミリアを虐げただろう!」

「ひどいですわ、レティシア様……。私の教科書を隠したり、ドレスにワインをかけたり……」


 ミリア嬢が涙ぐんだ目で私を見上げ、殿下の腕に顔を埋める。典型的な自作自演、あるいは被害妄想の類だ。私にはそんな暇もなければ、教科書を隠すなどという非生産的な嫌がらせをする理由もない。

 だが、今の私にとって重要なのは、彼らの三文芝居の台本チェックではなかった。


 二切れ目。

 今度は付け合わせのポテトグラタンと共に肉を切り分ける。クリーミーなポテトがソースと混ざり合い、また違った味わいを生み出すだろう。


 私は優雅な手つきでナイフを動かし、ステーキを口へ運んだ。


「貴様……! 無視をするな!」


 私の目の前まで迫った殿下が、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。

 周囲の貴族たちは、あまりの異様な光景に言葉を失っている。

 婚約破棄を突きつけられ、糾弾されている最中に、平然と食事を続ける公爵令嬢。前代未聞である。


 私は口の中のものを丁寧に飲み込んでから、ナプキンで口元を軽く拭った。

 そして、ようやく殿下へと視線を向ける。

 ただしその瞳には何の感情も映っていない。ただの事務的な眼差しだ。


「殿下。公の場での発言には責任が伴います。後ほど正式な文書にて申し開きをさせていただきますが――今は、食事中です」


 私の声は静かだったが、よく通った。

 あまりに淡々としたその口調に、殿下は一瞬毒気を抜かれたように口を開けたが、すぐに屈辱で顔を歪めた。


「食事中だと……!? この期に及んで、肉を食っている場合か! 貴様には羞恥心というものがないのか!」

「ジェラルド様、怖いですぅ……。やっぱりレティシア様は、常識が通じない方なんですわ」


 殿下がテーブルを拳で叩こうとした。

 その振動で皿が揺れれば、ソースが跳ねてしまうかもしれない。

 私は素早く皿を持ち上げ、一歩下がって、拳が落ちる衝撃から皿を遠ざけた。


「行儀が悪いですよ、殿下」


 私は冷ややかに指摘し、三切れ目の肉を口に運んだ。

 肉汁が舌の上で踊る。王宮の料理長は良い仕事をしている。この焼き加減、絶妙なレアだ。中心温度はおそらく55度前後。完璧な熱の通し方である。これを冷ますことこそが、国家的な損失だとなぜ分からないのか。


 会場の空気は凍りついていた。

 怒り狂う王子と、怯えるふりをする愛人。

 そして、それを完全に無視してステーキの味に没頭する冷徹な公爵令嬢。


 誰かが止めなければ、この奇妙な均衡は崩れそうになかった。


 その時だった。

 凍りついた空気を震わせるような、低い笑い声が響いたのは。


「くっ、はははは!」


 腹の底から湧き上がるような、愉悦に満ちた男の笑い声。

 全員の視線が、声の主へと向かう。

 それは、賓客用の席に座っていた一人の男だった。


 黒髪に鋭い眼光。左目の下に小さな傷跡がある精悍な顔立ち。漆黒の軍服に身を包み、ワイングラスを片手にくつろいでいるその姿は、獣の王のような威圧感を放っている。

 隣国、ガルガディア帝国の若き皇帝陛下――ヴォルフガング・フォン・ガルガディア。

 「鉄血の皇帝」と恐れられる陛下が、なぜか私を見て楽しそうに喉を鳴らしていた。


 殿下がギロリと彼を睨む。

「何がおかしい、陛下! これは我が国の重大な問題だ!」


 陛下は、ゆったりと椅子から立ち上がった。

 その長身が見下ろすだけで、ジェラルド殿下が無意識に一歩下がるのが見えた。


「いや、失礼。あまりに見事だったのでな」


 陛下は、獲物を見つけた肉食獣のような瞳で、まっすぐに私を見据えた。

 私は最後の一切れを口に入れ、ゆっくりと味わい終えたところだった。皿の上には、一片の肉も残っていない。完璧な完食だ。


「断罪の茶番を前に、顔色一つ変えず、肉の温度だけを気にする女など初めて見た」


 陛下は、私の手にある空になった皿を指差して、口の端を吊り上げた。


「面白い女だ。――気に入った」


 その言葉は、まるで新たな嵐の予兆のように、静まり返った広間に落ちたのだった。


 ◆


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2025年12月23日 17:00
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