第2話

薄曇りの午後、静かな部屋に鉛筆の音だけが落ちていた。私は机に向かいながら、なぜか落ち着かなかった。

理由は簡単だ。…私の大好きな塾の先生。

彼の低くて優しい声が聞こえる度、思考が散り、胸の奥に小さな火種のようなものが燻っていく。


「……ん」


思わず、持っていたシャープペンの先を胸の突起に押し当てて動かす。

ペンを握る指先が、無意識に硬さを確かめるように動くたび、身体の中から火種が微かに息を吹き返す。


「……集中が途切れていますね」


背後から、落ち着いた声がした。

私はびくりと肩を震わせ、とっさに苦笑いのような表情を浮かべる。誤魔化す言葉は喉の奥で絡まり、結局、素直な吐息だけが零れた。


「すみません……どうも今日は、心が騒がしくて」


彼は一歩近づき、机の脇に立った。距離はわずかに詰まっただけなのに、空気が変わる。規則正しく整えられていたはずの時間が、別の速さで流れ始めるのを、二人とも感じ取っていた。


「…自慰をしていましたね」


静かだが、威厳のある声だった。

……見られていた。

知られていたのだと気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

秘密にしていたはずの想いが、無理やり外気に触れたみたいで、逃げ場のない恥ずかしさが、熱を帯びて広がっていく。

隠したはずなのに、見られてしまった。

その事実が、恥ずかしいのに、嫌ではなくて…。

むしろ、知られていることそのものが、静かな甘さを連れてくる。


俯いてしまった私を見て、先生は少し声を和らげた。


「無理に抑える必要はありません」


静かな声だった。


「自分の内側で起きていることを、否定しない。それだけで、随分と楽になります」


私は戸惑った表情で視線を上げた。

胸の高鳴りは消えない。けれど、責められている感覚はなかった。むしろ、名前を与えられたことで、正体不明のざわめきが輪郭を持ち始めた。


「……私、ずっと…あなたの前だと、こうなるんです」


告白は、軽い冗談のようにも、真実の欠片のようにも響いた。

彼はしばらく沈黙した。

その間に窓の外で風が葉を揺らしている。


「それは…あなたが自分を正直に感じている証拠でしょう。

……しかし、集中を欠く行為は、場の空気を乱します。ここで一度、区切りをつけなさい」


「……え?」


「私が見ています。逃げずに、ここで自慰をしなさい。……さぁ、はやく」


そう言うと、彼は否定も肯定もせず、ただ私を見た。その目の奥に、私は奇妙な揺らぎを見て取る。

理性が形を保とうとする一方で、別の感情がかすかに瞬いている。欲情という言葉にするには強すぎ、無関心と言うには熱を帯びた、矛盾した光だった。


「……何を言っているんですか?」


私の声は落ち着いていたが、戸惑いの中に甘さが混じる。


「あなたの態度が、空気を揺らす。

それだけです」


私は息を吸い、ゆっくりと吐いた。

衝動は、今も胸の奥で温度を保っている。

だが、それはもはや暴れるものではなく、ただ在るものとして、静かに受け止められていた。


触れないまま交わされた理解が、部屋に静かに広がっている。

欲望と理性が同時に存在することを、互いに知った――それだけで十分だった。

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アラサー腐女子の不純な妄想 @punipuni_0123

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