仕合わせの掌、あるいは銀河のロスタイム
駅へと続く最後の一本道。
街灯の間隔が短くなるにつれ、夜の闇に紛れていた二人の輪郭が、人工的な光の下で残酷なほど鮮明に暴き出されていく。
彼の制服の袖を摘む指先に、知らず知らずのうちに力がこもる。一歩踏み出すごとに、指の隙間から「魔法」の砂粒がこぼれ落ちていくような、言いようのない焦燥感が胸を焼く。
(……このまま、歩幅を半分にすれば。夜は二倍、長く続くのかな)
そんな子供じみた願いをあざ笑うように、遠くで踏切の警報音が、夜気を切り裂いて鳴り響いた。
それは、現実の世界へと連れ戻すための、無慈悲なカウントダウン。
ふと見上げた駅舎の古い時計台。
その針が指し示す無情な角度を目にした瞬間、止まっていたはずの時間が、猛烈な勢いで逆流を始めた。
「……悠人、嘘、もうこんな時間」
二人の視線が交差する。
どちらからともなく、縋るように駆け出した。
重い体を引きずり、冷たい夜気を肺の奥まで無理やり流し込む。
視界の端で、駅舎の蛍光灯が冷たく明滅していた。
「はぁ、はぁ……嘘、でしょ」
肺が焼け付くような痛みを堪え、改札へと駆け込んだ。
頭上の時計の針は、無情にも 21 時 55 分を指している。
終電は、21 時 48 分。
視線の先、何もない線路を見つめたまま、隣で鞄が滑り落ちる音がした。へたり込む影が一つ。
「マジで……野宿かよ」
膝に手をつき、乱れた呼吸を整える。喉の奥に、微かな鉄の味が混じった。
「だから言ったじゃない……キャンプも悪くないって」
精一杯の強がりを口にして、顔を上げる。その時、視界の端に小さな違和感を捉えた。
「……あそこに、人がいる」
指差した先。待合ベンチで、駅員制服を着た老人が一人、悠然と新聞を広げていた。弾かれたように駆け寄る。
「すみません! 終電、もう行っちゃいましたか?」
老眼鏡の奥、皺深い目がゆっくりとこちらを向き、腕時計へと落ちる。
「まだじゃよ」
「え? でも時刻表には……」
「ああ、あれか」
老人は壁に貼られた小さな張り紙を顎でしゃくった。
「今日は金星の何たらが見える日じゃろ? 山の上の客のために、一時間繰り下げ運転なんじゃよ。次は 22 時 48 分じゃ」
——あと、一時間。
張り詰めていた糸が切れ、思わず笑いが込み上げてくる。
「ほらね。やっぱり、星は私たちの味方なんだよ」
この一時間の遅延。それはまるで、広大な宇宙がほんの気まぐれに用意してくれた、魔法のようなロスタイム。
「……負けたよ」
安堵の溜息。隣の横顔、その口元が微かに緩むのを、私は逃さず見つめていた。
***
古びた木製のベンチ。
ギシ、と音を立てて並んで座る。
山から吹き下ろす夜風が、火照った肌の汗を冷やしていく。けれど、すぐ右側には確かな熱源がある。
服の袖が触れ合うか触れ合わないか。そのわずかな距離から伝わる体温だけで、世界は十分に温かかった。
背もたれに体を預け、頭上の街灯に右手をかざしてみる。
古ぼけた傘電球が放つ、頼りないオレンジ色の光。指の隙間からこぼれ落ちる光の粒の向こうに、悠人の横顔が透けて見えた。
長い睫毛、通った鼻筋、何かを噛み締めているような唇。
「……掴めないなぁ」
思わず、独り言が漏れる。
光も、時間も、そして隣にいるこの温もりも。
こんなに近くにいるのに。手を伸ばせば触れられる距離なのに。永遠には、この指の間に留めておけない。
さらさらと、砂のようにこぼれ落ちていく。
その時——。
ふわりと、視界が遮られた。
掲げていた固い拳が、大きく温かな力に包み込まれる。
ゴツゴツとした、骨っぽい感触。強張っていた指が、一本ずつ、ゆっくりと解かれていく。まるで、頑なな蕾を優しく開かせるように。
「そんなに強く握りしめてたら、何も受け取れないだろ」
呆れたような、けれど甘い響きを含んだ声が降ってくる。
「大事なものが落ちてきても、
「……っ」
虚を突かれ、開かれた自分の掌を見つめた。
私の手は小さく、彼の手は大きくて、少しだけ乾燥している。行き場を失った両手を、胸の前で合わせた。自分の弱さを隠すように、指と指を組んで、祈るような形を作る。
「ねえ、知ってる?」
合わせた指先を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「一人の時、こうやって手を合わせるのを……『手合わせ』って言うの。神様に祈ったり、自分と向き合ったりする時の形」
「うん……」
静かな相槌。彼はただ、次の言葉を待っている。
一度大きく息を吸い込み、合わせた掌をゆっくりと左右に開いた。無防備な掌を、彼に向けて静かに差し出す。
「じゃあ、二人の時は?」
一瞬目を見開き、数秒の沈黙の後——すべてを理解したように目を細めた。
同じように両手が上げられ、私の手へと近づいてくる。
あと数センチ。触れる前から、互いの熱が空気の層を通して伝わってくる。
「こうするとね……」
二人の掌が、音もなく重なった。
ピタリと。隙間なく。
まるで、最初からこうなるために作られたパズルのピースのように。
「『仕合わせ』って言うんだよ」
言いたかった言葉を、彼が低く優しい声で紡いでくれた。
意味が脳に届くより先に、掌から伝わる感触が身体の芯を震わせた。
境界線が溶ける。
皮膚を通して、彼の脈動が流れ込んでくる。ドクン、ドクン。それは私と同じ速さで、同じ強さで刻まれる、生きている音。
視線が絡み合う。彼の瞳の奥で揺れる街灯の光、そこに映る、泣きそうな顔をした私。
——ああ。
この人のことが、どうしようもなく好きだ。
風の音が止んだ。世界から雑音が消え失せる。
視線が、自然と彼の唇に吸い寄せられた。
あと少し。あと数センチ。無意識に爪先立ちになり、顔を近づける。
彼も逃げない。ただ真っ直ぐに、こちらを見つめている。鼻先をくすぐる夜の匂いと、熱を帯びた吐息。
(——ダメ)
唇が触れ合う寸前、冷徹な理性が脳内で警鐘を鳴らした。
(これ以上、好きにさせちゃいけない)
(この人に、一生消えない傷を残すことになる)
「わっ、悠人!」
弾かれたように飛び退いた。
繋がっていた手が離れ、冷たい夜気がその隙間に容赦なく入り込む。
「て、手が熱い! 熱でもあるんじゃないの?!」
声が裏返った。顔が火事みたいに熱い。嘘をつく唇が、自分でもわかるほど震えている。
「なっ、あるわけないだろ!」
慌てて顔を背けた彼の耳も、夕焼けのように赤く染まっている。
「さっき君が体当たりしてきたから、動悸が収まってないだけだ!」
「……誰のせいよ」
「急に突っ込んでくるほうが悪い」
視線を合わせられず、気まずい沈黙が流れる。でも、その空気すらも甘酸っぱくて、胸が痛い。
遠く、レールの彼方からヘッドライトの光芒が見えた。
誤魔化すように夜空を見上げ、ふと呟く。
「……今日の月、細いね」
「
「なんだか、寂しそう」
「一人の月か」
ボソリと、彼が言った。
「……なら、僕が一緒にいてやるよ」
「え?」
「一人で見る月は寂しいだろ。だから——」
心臓が、痛いくらいに跳ねた。
月を見上げたまま、頑としてこちらを見ようとしない。けれど、その横顔だけが優しく染まっている。
プシュー、という音と共にドアが開く。
「帰りは長いぞ」
「寝ちゃうかも。警備員さん、お願いね」
「……はいはい」
「噓だよ」
軽口を叩いて、車内へと足を踏み入れる。
振り返ると、無人のホームと、空に浮かぶ寂しげな三日月。
この夜の終わりは、長いお別れの始まりでもある。
「車窓からの夜景も綺麗だしね。……見逃すわけには、いかないよ」
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