過去からの手紙、明日を拒む微笑み
遠く、麓の街明かりが滲むように浮かび上がってきた。
散らばる光の粒は、地面に撒き散らされた星屑のようだ。
きれい。けれど、その光は残酷なほど鮮明に「魔法の終わり」を告げている。
坂の
ジャリッ、と砂利が靴底の下で滑り——
ふっ、と。
足元から世界が抜け落ちた。
「あっ——」
視界が不規則に回転し、喉の奥で心臓が跳ねる。
——倒れる。
けれど、硬い地面に叩きつけられる衝撃は来なかった。
代わりに、熱い力が横から体を強く引き戻す。
「っと、危ない!」
腰に回された腕。強引で、けれど必死な力強さ。
手から滑り落ちた懐中電灯が、地面でカラコロと乾いた音を立て、闇の中に乱暴な光の軌跡を描き出した。
「大丈夫か!?」
耳元で響く声が、焦りで裏返っている。
その響きがあまりにも無防備で、優しくて、張り詰めていた涙腺が震えそうになる。
薄いシャツ越しに伝わる体温。驚きで早鐘を打っている他人の鼓動。
それが痛いほどリアルで、
「本当に大丈夫か? 顔色が——」
拾い上げられた懐中電灯の光束が、容赦なくこちらの顔を暴き出す。
眩しい。
反射的に顔を背けた。光そのものよりも、その瞳にすべてを見透かされるのが怖かった。
「……平気だよ」
手慣れた仕草で
声の震えは喉の奥で押し殺した。よし、これなら誤魔化せる。
けれど——射抜くような視線は外れない。
瞳の奥底まで覗き込むような、真剣な眼差し。
バレた……?
心臓が凍りつく音を聞いた気がした。
いや、まだだ。
下腹に力を込め、もう一度、さらに明るく笑ってみせる。
「本当だよ。ちょっと足元がふらついただけ。ほら、見てよこの靴。お洒落は我慢って言うけど、山登りには向いてなかったかなあ」と、おどけたように笑ってみせた。
(でも、いつか——)
その予感が鋭利な棘となって、胸の奥深くに突き刺さる。
「……行こう。もうだいぶ降りてきた」
まだ納得していない様子だったが、短く息を吐いて頷いてくれた。
ただ今度は、前ではなく、すぐ隣に並び立つ。
いつでも支えられる距離。
触れるか触れないか、その僅かな隙間に彼の気遣いが満ちていた。
***
林を抜けると、風にアスファルトの匂いが混じり始めた。
視界の先、公道沿いに続く街灯の列。
それは闇夜に引かれた一本の銀色の導線であり、夜の魔法を現実へと引き戻す結界のようにも見えた。
駅まであと三十分。
胸に、ぽっかりと冷たい風穴が開く。
——終わっちゃうんだ。
この夜が。この魔法が。
無意識のうちに、足取りが重くなる。
「詩織、どうした?」
「……ううん」
首を横に振り、小さく笑う。
「ただ、ちょっと名残惜しくて」
それは嘘じゃない。
山の湿った匂いも、網膜に焼き付いた星の残像も、掌に残る彼の熱も。
全部、全部が愛おしい。
でも、それは真実の半分だけ。
残りの半分は、あまりに重すぎて、言葉になんてできない。
夜空を見上げる。
街灯の光害にかき消され、星の数は随分と減ってしまった。
でも、その頼りない輝きは、この町を見守る優しい瞳のようにも見える。
星の光は、過去からの手紙。
何百年も旅をして、ようやく今、私の瞳に届いた光。
私が消えても、あの子たちは旅を続け、誰かの夜を照らすのだろうか。
悠人の未来を、照らしてくれるのだろうか。
「……行こう。急がないと、終電逃しちゃう」
肺いっぱいに冷たい空気を吸い込み、声を張り上げる。
よし、軽快だ。
何か言いたげに口を開きかけた彼は、結局、言葉を飲み込んで「ああ」とだけ答えた。
***
二人並んで、駅へと向かう。
タッ、タッ、タッ。
アスファルトに響く足音が、終わりの時間を刻むメトロノームのように正確に、残酷に響く。
繋いだ手は、温かい。
乾燥していて、骨っぽくて、絶対的な避難場所のような手。
でも、いつまでもそこに隠れているわけにはいかない。
そっと、指の力を抜く。
気づかれないうちに、風のように、その掌から滑り落ちる。
「……あ」
隣で足音が止まった。
宙を掴んだ手が、行き場を失って彷徨う。
二歩ほど離れた場所で立ち止まり、爪先を見つめた。
今、顔を見たら、絶対に泣いてしまう。
「……詩織?」
背後から、困惑を滲ませた声。
ドクン。
心臓が痛いほどに跳ねる。
息ができない。胸が張り裂けそうだ。
拳を握りしめ、爪を掌に食い込ませる。痛みで理性の堤防を築く。
顔を上げて、完璧な笑顔で終わらせるんだ。
けれど——。
街灯の淡い光の下、視線が絡み合った瞬間。
その心配そうな、けれど真っ直ぐに私だけを映している瞳を見た瞬間。
視界が歪んだ。
築き上げた堤防が、音を立てて決壊した。
思考より先に、足が動いていた。
一歩、二歩——。
よろめくように、光に集まる
気がつけば、その胸に飛び込んでいた。
ドスッ。
衝撃で、彼が半歩たたらを踏む。
制服の生地を鷲掴みにし、顔を埋める。
体温、匂い、戸惑って早くなる心臓の音——。
その全てが、痛いほどにリアルだ。
言葉なんて出てこない。
ただ、もっと強く、もっと深く抱きしめることしかできない。
この温もりを、魂に刻みつけるように。
一瞬の硬直。それから——。
迷うように彷徨っていた手が、恐る恐る背中に触れた。
やがて、もう片方の腕もこちらを包み込み、優しく、強く抱き寄せる。
理由は聞かない。
ただ静かに、受け入れてくれる。
誰もいない夜道、街灯の下で、二つの影が一つに溶け合う。
世界には今、互いの鼓動の音しかない。
それが、この夜で一番美しい旋律だった。
***
呼吸が重なる。
時が止まったように、世界のノイズが消える。
ドクン、ドクン。
心臓の音だけが、生きていることの残酷さと確かさを告げている。
怖い。
失うのが怖い。明日が来るのが怖い。
でも、彼の腕の中にいる今だけは——。
「……詩織」
壊れ物を扱うような、低い囁き。
「……平気」
ようやく絞り出した声は、ガラス細工みたいに脆かった。
「ただ……急に、離れるのが寂しくなっちゃっただけ」
腕を解き、
冷たい夜風が二人の隙間に割り込む。
見上げると、光の中で長い睫毛が揺れている。
その瞳には、私には勿体ないほどの優しさが溢れていた。
「……ありがとう」
自分でも聞こえないほどの小声で呟く。
彼は何か言おうとして、やめた。
代わりに、乱れた前髪を、そっと指先で耳にかける。
その感触が、泣きたくなるほど優しい。
「行こう」
彼が言った。
頷く代わりに、そっと、その制服の袖口を摘んだ。
手は繋がない。でも、離れられない。
一歩、二歩。
待合所の灯りに向かって、二人の歩みが再び重なり出した。
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