Side: Shiori

忘れないで、この夜の色だけは

前を行く足元が、白い光で鋭く切り取られていく。

闇の中に浮かび上がる背中は迷いなく、ただ真っ直ぐに、私の道標となって夜を裂いていく。


——いつからだろう。この背中が、こんなにも頼もしくなったのは。


光の束が揺れるたび、原生林の影が巨大な生き物のように踊る。

ほんの数時間前、強引に腕を引いて連れ出したのは私の方だったはずなのに。今はもう、彼がこの夜の重力を支配している。


出会った頃の悠人は、明かりの灯らない空き家のようだった。

静寂と活字の海に沈み、誰の侵入も拒んでいた少年。

けれど今、繋いだ掌から伝わってくるのは、不器用なほどに実直な生命の拍動だ。


胸の奥で何かが静かに溶け出し、温かい奔流ほんりゅうとなって指先まで巡っていく。

今の彼は、こんなにも温かい。

こんなにも、強い。


時折、こちらの歩幅を気遣うように振り返る、微かな衣擦れの音。

「大丈夫か?」

低く、少し掠れた声。

その優しさがたまらなく嬉しくて——それ以上に、刃でえぐられるように痛い。

甘くて、温かくて、それなのに飲み込めないほど酸っぱい痛み。


どうして。

こんなに幸福しあわせなのに、どうしてこんなに、涙が零れそうなんだろう。


この瞬間をどうすれば永遠にできる?

網膜に焼き付けるべきか。それとも、心臓に彫り込むべきか。


一秒たりとも見逃したくない。

歩くたびに揺れる肩のライン。夜風に遊ばれる髪。懐中電灯を握りしめて白くなった指の関節。

その全てが、砂時計の砂のように指の隙間からこぼれ落ちていくのが、怖くてたまらない。


視界が不意に滲んだ。

瞬きひとつで、熱いしずくを無理やり押し戻す。

ダメだ。ここで泣いては、彼が気づいてしまう。

涙越しに見れば、この美しい夜の色さえ、悲劇に変わってしまうから。


足が、鉛を流し込まれたように重い。

さっきまで翼が生えたように軽かった身体が、今は冷酷な重力に縛り付けられている。

一歩踏み出すたびに、肺が焼け付くように熱い。

酸素が薄い。どれだけ深く吸い込んでも、水底に沈んでいるように息苦しい。

足首が悲鳴を上げ、太腿の筋肉が意思に反して小刻みに痙攣を繰り返す。


——限界だ。

細胞の一つ一つが警鐘を鳴らしている。

けれど、止まるわけにはいかない。


平気。まだ大丈夫。

まだ終わらせたくない。少なくとも、今はまだ。


「少し、休むか?」


乱れた呼吸を悟られたのか、彼が足を止めた。

心配そうに覗き込んでくるその瞳に、反射的に「笑顔マスク」を貼り付ける。

顔の筋肉を総動員して作った、一点の曇りもない偽りの微笑。


「ううん、大丈夫! 全然平気だよ」


声を弾ませる。いつも通りに。明るく。

悠人にだけは、死の影を見せてはいけない。

この魔法の夜を、私の弱さで汚したくない。


けれど——。

繋いだ掌の中で描かれた、夏と冬の境界線。

彼の手から伝わる圧倒的な熱が、私の指先の冷たさを残酷なほど鮮明に暴き立てる。


気づいているのだろうか。

それとも、気づかないふりをしてくれているだけなのか。


もっと、ゆっくり歩きたい。

喉元まで出かかった願いを、冷たい唾と一緒に飲み込む。

それはただの、醜いエゴだ。

もっと声を聞いていたい。この体温に触れていたい。

この夜が、永遠に明けなければいいのに。


けれど時間は、誰の願いも聞き入れはしない。

無機質なほど正確に、一秒、また一秒と世界を削り取っていく。


ジャリッ、ジャリッ。

静寂な山道に響く足音が、夢の終わりを告げるメトロノームのように聞こえる。

一歩、また一歩。

木々の隙間から、ふもとの街の灯りがチラチラと覗き始めた。


(見ちゃダメ。まだ、現実に帰っちゃダメ……)


首を振り、暗い予感を振り払う。

今だけを見て。

そのために、私はこの「冒険」を始めたのだから。

他のどんな時よりも鮮烈に、私は今、ここで生きている。


「悠人」


闇に溶けそうな背中に、そっと声をかける。


「ん?」


「今日は来てくれて、ありがとう——ほんとに、感謝してる」


彼は足を止めた。

暗がりの中で振り返った顔には、隠しきれない戸惑い。


「……なんだよ、急に」

「ううん」


首を横に振り、精一杯、口角を持ち上げる。

「ただ……言いたくなっただけ」


ありがとう。私を一人にしないでくれて。

ありがとう。一緒にこの星空を見上げてくれて。

ありがとう。私の最後の旅路で、一番星になってくれて。


言いたいことは、喉元まで溢れていた。

本当はもっと、たくさんあるんだ。

『明日の放課後、どこか寄り道しようよ』

『夏になったら、浴衣着てお祭り行こうね』

『今日の私のこと、絶対に忘れないでね』

すがりつくような言葉たちが、舌の裏で暴れている。


でも——言えない。

決して、口にしてはいけない。

そんな「未来」を語ってしまえば、この夜の魔法は解けてしまう。

私たちがただの『共犯者』から、『可哀想な病人と、優しいだけの高校生』に戻ってしまうから。


だから、ここで終わらせなきゃいけない。

私は笑う。最高の笑顔を貼り付けて、別れの言葉を心臓の底に封じ込める。


風が吹き抜け、葉擦れの音をさらっていく。 遠くで夜鳥が鳴いた。

見上げた空には、もうあの銀河の橋は見えない。

その現実は鋭く、そして痛いほどに、寂しかった。


私たちは下っていく。

一歩進むごとに、あの輝かしい星空は遠ざかり。

私たちは確実に、残酷な現実終着点へと、落ちていく。

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