星の光が差し伸べる橋、繋がれた指先

乾いた板が、ギシ、と重苦しい悲鳴を上げる。

靴底から伝わる微細な振動が、背骨を這い上がってくるような不気味な感覚。


一歩、また一歩。


闇を切り裂く光の束は頼りなく、漆黒のキャンバスに無理やり細い道をこじ開けているようだ。踏み出すたびに橋全体が呼応して微かに震え、長い長い溜息のような摩擦音が谷底へ吸い込まれていく。


眼下は、底知れぬ闇。

地底からの咆哮ほうこうにも似た渓谷の轟音だけが、ここがいかに高く、危険な場所かを警告し続けている。

けれど、足は止まらない。

世界の果てへと続く一本道を渡る綱渡りのように。慎重に、しかし迷いなく、虚無の深淵へと進んでいく。


橋の中央に差し掛かった時、不意に風が強まった。

雲が吹き散らされ、視界が一気に開ける。


足が止まる。

頼りなく揺れる手すり以外、遮るものは何もない。

天地の間に吊り下げられた二つの影——寄る辺なく、けれど、固く結ばれている掌の熱だけが、今この場所にいることを証明していた。


「ねえ、知ってる? 悠人」


手すりに体を預け、視線が夜空へと吸い寄せられていく。

濃紺の闇の中で、その瞳だけが星屑のように瞬いていた。


「銀河ってね、本当は『川』なの」


言葉が風に吹かれ、薄い紙片のように舞う。


「昔の人は考えたの。地上に川があるように、空にも川があるって。そして橋は、それらを繋ぐ場所。……橋の上にいる時、人は『此岸しがん』にも『彼岸ひがん』にもいない」


声が、星明かりに溶けて輪郭を失っていく。


「今の私たちみたいに。完全に過去にいるわけでも、現在だけにいるわけでもない。……どこへも、繋がっていない場所」


短い沈黙。風の音だけが、二人の隙間を通り抜けていく。


「……君は、どっち側に行きたいんだ?」


問いかけへの即答はなかった。

闇が表情を塗りつぶし、手すりを握る指先の白さだけが浮き上がっている。

その沈黙は、夜に咲く花のようにゆっくりと開いていく。

言葉のない答えが、静かに届く。


——この橋の上に留まりたい。この『あわい《間》』の中にいたいのだと。

その予感が、温かい石のように胸の奥へと落ちた。


その時だった。

フッ、と光が断ち切られた。


「え?」


スイッチを何度かカチカチと押すが、無機質なクリック音が響くだけで反応はない。


「電池切れ、かな……」

闇の中に、声だけがぽつりと浮かぶ。

「さっき、遊んで使いすぎちゃったのかも」


世界が瞬時にして変貌した。

純粋で、濃密な黒。宇宙が扉を閉ざしたかのような完全な暗闇に、足元の橋板さえも消え失せる。

唯一確かなのは、すぐ耳元で聞こえる呼吸の音と、繋いだ手の確かな体温だけ。


「予備の電池、持ってるって言ってただろ?」

「あるよ」


暗闇の中で、悪戯な笑みの気配がした。


「でも、あげない」

「じゃあ、スマホのライトを——」

「待って」


袖口を、強い力で掴まれる。


「点けないで。……目が慣れてくるから。そうしないと、本当の星は見えないの」


橋の真ん中で、身じろぎもせず立ち尽くす。

ただ、網膜が世界を捉え直すのを待つ。


最初は、粘り気のある黒だけが視界を塞いでいた。

何も見えない。足元の地面さえ疑わしくなるほどの虚無。

けれど、次第に視覚が夜の深淵に浸透し始める——。


最初に浮かび上がったのは、空の色だった。

死んだような黒ではない。海底のように深く、透明なインディゴブルー。

夜明け前の湖面のように、静謐で、無言の色。


やがて、その青が深まっていく。

青から藍へ、そして吸い込まれるような純粋な闇へ。

だが、それは虚無ではない。

ベルベットのように柔らかく、すべてを包み込み、無限の光を内包した闇だ。


光が、滲み出してくる。

一つ、二つ。十、百。

無数の細い針が夜の帳を突き破り、その裂け目から宇宙の光が溢れ出してくる。


その時——。

詩織が上体を反らし、夜空を仰いだ。長い髪が夜風に流れ、星明かりに濡れたように艶めく。


「あそこ……見える?」


掲げられた指先は、金星のすぐ上を指していた。

そこには、身を寄せ合うように集まった小さな光の群れ。

天鵞絨ビロードの上に撒かれた小さな真珠のように、儚く、美しい星団。


「星にはね、それぞれの物語があるの」

囁きは、光のこだまのようだった。


「金星は『宵の明星』。いつも一番最初に現れて、一番最後に消える。……だから、いつもひとりぼっち」


言葉の端が、少しだけ震えた気がした。


「でも今夜は、プレアデス星団——『すばる』が近くにいる。六人の姉妹星が寄り添ってる。だから——もう一人じゃない」


小首を傾げ、視線が絡み合う。

その瞳の中で星明かりが揺れ、小さな宇宙を作っていた。

言葉にしなくても、伝わってくる。

——今の、私たちみたいに。


「ねえ、知ってる? 悠人」

再び、視線は空へ。


「私たちが見ている星の光って、実は全部『過去』なんだよ」

「過去?」

「うん。金星の光は、約8分前のもの。すばるの光は、440年前のもの。もっと遠くの星は……何千年も昔の光」


違う時代の光が、今夜、この瞬間——。

同時に二人の網膜に降り注いでいる。


「おばあちゃんが言ってた。星空は、時間が折り畳まれている場所だって。……だから多分、私たちは今、未来の交差点に立ってるの。すべての『過去』が薄い層になって折り重なって、『現在』に降り注いでる」


手が掲げられ、夜空になぞるような弧を描く。

見えない橋を架けるように。


「あの天の川にはね、『かささぎ』っていう鳥が翼を広げて、橋を架けてくれるっていう伝説があるの。時間を折り畳んで、会いたい人に会わせてくれる不思議な橋」


彼女はそっと夜空を指差した。


「君の視線が心から伸びていく橋だとしたら、星の光は——宇宙の彼方から差し伸べられた橋」


満天の星空が映り込んだその瞳には、全宇宙が凝縮されているようだった。


「……それで?」

低く問うと、柔らかい笑みが返ってきた。

星々が触れ合って音を立てるような、静かな笑み。


「それでね、二つの橋が繋がったら、一つの完全な橋になるの。それが——『心が通じ合う』ってこと」


目を閉じ、光の感触を確かめるように。


「君が歩み寄れば、向こうも歩み寄ってくれる。光と視線が交わる場所、そこが奇跡の起きる場所。」


夜風が水面を渡るように、穏やかに微笑む。

つられて、頭上の無垠の星の海を見上げた。


その瞬間、星の光が物理的な質量を持って胸の中に流れ込み、ずっと空っぽだった場所を満たしていくのを感じた。

もう、空虚ではない。

この星空があり、隣に体温があり、この瞬間があるから。


四方八方、すべてが光だった。

空は頭上にあるだけでなく、球体のように世界を包み込んでいる。

橋の下、遥か彼方の川面にも、もう一つの宇宙が映り込んでいるからだ。


二つの星の海の間に、ふわりと浮遊する感覚。

時間をまたぐ橋の上で。

全ての過去と現在が重なり合い、交差する場所で。


そして今夜——。

僕たちは間違いなく、宇宙の中心に立っていた。


時間が、止まったようだった。

いや、違う。すべての時間がここに積み重なっているのだ。

その全てが、今この瞬間、瞳に、胸に、降り注いでいる。

過去と現在の境界線が、音もなく融解していった。

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