未開封の夜空と、二人のシーリングワックス
夜の
頭上を覆うのは完全な黒ではない。深海のような、底知れないインディゴブルー。
流れる雲の切れ間から、洗い立ての天幕が顔を覗かせていた。
「見て」
隣を歩く横顔が、ポツリと独白を漏らす。
「空が、まだ封を切られていない、深い青色の手紙みたい」
視線の先、濃紺のカンバスの中に、ひとつの光の粒が静かに浮かんでいた。
それは手紙の上に落ちた一滴の白い涙のようでもあり、あるいはその手紙を封印するための、熱い
「……見えた?」
不意に足音が止まった。
顎を少し上げ、夜空を仰ぐ瞳に星の光が宿る。
金星——宵の明星。
瞬きもせず、激しく主張することもなく、ただ一定のリズムで静謐な光を放っている。
夜の静寂を驚かせないように優しく、けれど決して消えることのない意志を持って。
風が耳元を掠め、あたりには互いの呼吸の音だけが残された。
沈黙の中に、鈴を転がすような声が落ちる。
「おばあちゃんが、昔言ってたの。一番星を見つけるとね、心が一番帰りたいと願う場所が、自然と浮かんでくるんだって」
ふわりと、綻ぶような笑み。
触れれば消えてしまいそうなほど、儚い。
楽しげでもなく、悲しげでもない——長い間胸の奥に埋めていた柔らかな宝物を、壊さないようにそっと掌へ取り出したような、そんな表情だった。
一拍置いて、問いかけるような視線がこちらを射抜く。
「ねえ。もし……『迷子になること』がひとつの答えだとしたら、怖い?」
すぐには答えられなかった。
もう一度、頭上の深い青を見上げる。
「……あれを見てると」
喉の奥から、本音が絞り出される。
「不思議と、迷わない気がするんだ」
再び、静寂が満ちる。
山林の全ての音が遠のき、ただ金星だけが藍色の夜の中でゆっくりと呼吸をしている。
その星は、彼女がまだ言葉にできない想いを代弁するように、静かにそこに在った。
ここは昼と夜の狭間。過去にも未来にも属さない、刹那の世界。
「……行こう」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
「
一歩、前へ踏み出す。
「待って」
手首を掴まれた。
握っていた懐中電灯を抜き取られ、改めて掌に乗せられる。
夜の空気を揺らさないような、静かな声。
「ここからの道は——悠人が先導して」
ライトの光が指先で微かに揺れ、彼女の顔を柔らかな光の輪で縁取る。
「もう、すぐそこだから」
風のような囁き。
懐中電灯を強く握り直し、肺の奥まで夜気を取り込んだ。
「はぐれるなよ。本当に迷子になるぞ」
「うん」
その返事は、さっきまでのどの言葉よりも温かく、確かな響きを持っていた。
そして、何の予告もなく。
空いた左手に、細い指が滑り込んできた。
触れ合った瞬間、冷え切った夜の中に、一筋の暖流が流れ込んだようだった。
強く握るわけでもなく、躊躇うわけでもなく。
ただ、当然そこにあるべきものとして、ふわりと。
ジャリッ、ジャリッ。
再び足音が響き始める。
宙に架かる橋を目指して。
あのまだ開封されていない手紙——星の海の、一番深い場所へと。
歩を進めるにつれて木立が
最初は微かなせせらぎだったものが、次第に地底から響くような、重く低い轟音へと変わっていく。
「……聞こえる?」
繋いだ手に、ギュッと力がこもった。
「ああ。渓谷の音だ」
自然と歩調が緩む。
最後の茂みを抜けた瞬間、視界が唐突に開けた。
懐中電灯の光束が闇を切り裂き、絶壁の間に横たわる巨大な影を照らし出す。
——古びた木造の吊り橋だ。
太い
ライトに浮かび上がった橋板は、白骨のように乾き、縁は朽ち、無数の亀裂が走っていた。
それは中空に静かに浮かび、「
谷底から吹き上げる風が、湿った水気を孕んで容赦なく顔を叩く。
思わず足が止まった。手元の光が、頼りなく橋の上を揺れる。
「……随分と、年季が入ってるな」
喉が鳴った。風に千切られそうな声で、なんとかそう零す。
「怖気づいた?」
小首を傾げて覗き込んでくる瞳。
そこにはライトの反射が宿り、この危険な状況には不釣り合いなほどの興奮が揺らめいている。
「……まさか」
虚勢を張り、震えそうになる手を強く握り返す。
そうでもしないと、唯一の「現実」を繋ぎ止めておけそうになかった。
「ふふっ、そんなに強く握って……」
交差した自分たちの手を見下ろし、口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「落ちそうになったら私を道連れにして、クッションにする気じゃないでしょうね?」
「違う。……手が冷たいから、温めてやってるだけだ」
ふいと視線を逸らす。その目を見ることができない。
「噓つき」
くすりと笑う声が、柔らかく耳朶を打つ。
手を振りほどくこともなく、むしろ、さらに身を寄せてくる。
足元でライトが歪な円を描き、朽ちた板の上に二人の影を長く伸ばして交錯させる。
心臓の音が重なりそうな距離。
夜風が詩織の髪を乱し、その毛先が頬を
微かな痒みと、甘い香り——そして、名付けようのない悸動が胸を締め付けた。
「あ……そうだ、カイロ——」
高鳴る鼓動を隠すように、手を離して鞄を探ろうとした。
けれど、それは許されなかった。
離れかけた手を捕まえ、より強く、指を絡めて握り返される。
掌の熱が皮膚を浸透し、全ての言い訳を封じ込めていく。
「これでいいの」
闇の中に落ちた、切実な囁き。
風よりも軽く、けれど夜よりも深く。
「探してる時間なんてないでしょ。……行こう」
言葉にならなかった。
ただ、痛いほどに求めてくるその指の力を、確かな重みとして受け止めることしかできない。
「……ああ」
低く唸るように答え、前方で微かに揺れる吊り橋へと視線を固定した。
そうでもしていなければ、胸の奥の不規則なリズムを鎮められそうになかったから。
そして——。
その最初の一歩を、踏み出した。
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