インディゴの夜、溶けていく呼び名

紫色の残照が溶けるように薄れ、空は深い藍色インディゴへと飲み込まれていく。

山の輪郭が夜の底へと沈むと同時に、冷ややかな気配が足元から這い上がってきた。

吹き抜ける風は昼間の熱を置き去りにし、代わりに草木の湿った匂いを運んでくる。

光と影が入れ替わる黄昏。世界はまるで水を含ませすぎた水彩画のように、ゆっくりと、しかし確実にその色を滲ませていた。


隣で、ガサゴソとナイロンの擦れる音がした。

何やら楽しげなリズムで、指先が鞄の底を探っている。


「……新学期の鞄に、なんでそんなに詰め込んでるんだよ」

呆れた声を漏らすと、手探りを続けたまま悪戯っぽい声が返ってきた。


「備えあれば憂いなし、って言うでしょ? 何が役に立つか分からないし」

「普通、初日からサバイバルキットなんて持ち歩かないけどな」


「——じゃじゃーん! 懐中電灯!」


掲げられた手の中にあったのは、小型のLEDライト。

スイッチが入った瞬間、鋭い光の束が深い藍色の闇を切り裂き、足元の砂利を白く浮かび上がらせた。


「まさかこれを持ってるなんて思わなかったでしょ? 山道で夜景を見るなら必須アイテムだと思って、予備の電池まで買ってきたんだから」


得意満面とくいまんめんで掲げられたライトが、光の剣のように振り回される。

その無邪気な軌跡を目で追いながら、呆れるのを通り越して感心してしまった。

時間の読み方、ルートの選び方、そしてこの装備。

ただの偶然でここまで辿り着けたのか、それとも最初から全て計算尽くだったのか。……あるいは、単に強運な迷子という線も捨てきれないが。


「……その計画で、一つだけ分からないことがある」

光の先を見つめたまま、問う。

「そもそも学校に来るつもりだったのか、それともキャンプに行くつもりだったのか。どっちなんだ?」


「むー」

唇を尖らせ、不服そうな鼻息が漏れる。

「悠人ってば、懐中電灯をただの照明だと思ってない?」

「は? それ以外にどう使うんだよ」

「こうするの!」


パチッ。

一度ライトが消え、気配がくるりとこちらに向き直る。

一拍の静寂。


カッ!

顎の下から放たれた光が、白い貌を不気味に浮かび上がらせた。影が逆さに伸び、見慣れた顔が別人のように歪む。


「う〜ら〜め〜し〜や〜〜! ……驚いた?」

「……」

「……あれ、反応薄くない?」

「……幼稚だなぁ」


鼻で笑ってやると、ガッカリしたようにライトが下ろされた。

光の束が足元で乱暴に踊る。まるで、散らばった星屑が拗ねているようだ。


「ちぇっ。ちょっとは怖がってくれてもいいのに」

「あいにくだけど」

すぐそこにある左腕を、ペシッと軽く叩く。

「ただの食いしん坊なお化けなんて、ちっとも怖くないからな」

「っ、ひどい!」


コロコロと鈴が鳴るような笑い声。身をよじって一歩下がった拍子に、揺れるライトがその笑顔を照らし出した。

暗闇の中に浮かぶ、柔らかい光の輪郭。


夜はいよいよ深くなり、山道は完全な闇に包まれようとしている。

けれど、この他愛のないじゃれ合いが小さな灯火となって、忍び寄る冷気と寂しさを際で食い止めていた。


「さあ、行くよ」

再び歩き出す。

足取りはゆっくりになったが、その分、空気は軽やかだった。


揺れる懐中電灯の光と、濃密な夜の匂い。

一歩踏み出すたびに、日常という名の重力が切り離され、二人だけの密やかな夜へと深く潜っていくようだった。


先ほどまで辛うじて見えていた山の稜線は、もう完全に無辺の墨色に溶け込んでしまっていた。

森の音が、希薄になっていく。

まるで夜という名の底なしの湖に、世界ごとその身を沈めてしまったかのように。

足元の砂利を踏みしめる音だけが、静寂の中でやけに鮮明に鼓膜を叩く。一歩進むたびに、その振動が冷たい空気を震わせ、誰からも返事のない空洞な反響となって消えていく。


遠くで鳴いていた虫の声が、不意に止んだ。

山全体が息を潜め、二つの足音だけが、暗闇の中で頼りなく揺れ動いている。


「そういえばさ……」


少し重たくなった沈黙に耐えきれず、言葉を落とす。

光束に合わせて揺れている、背中に向かって。


「こんな時間まで帰らないで、家の人、心配してないのか?」


前の足が、止まりかけた。

つま先が、足元の小石を軽く蹴る。

コロン、と乾いた音がして、石が草むらへと転がっていく。その音は、口に出すのを躊躇った本音のように、あっと言う間に闇に吸い込まれた。


「……詩織で、いいよ」

声は次第に小さくなり、最後は吐息のような囁きとなって消えた。


「えっ……」

思わず足を止める。

暗闇の中に浮かぶ背中は、どこか心細げに見えた。


喉の奥に、何かが詰まったような感覚。

名前を呼ぶ。ただそれだけのことなのに、なぜこんなにも勇気がいるのだろう。

数秒の沈黙の後、恐る恐る、その音を舌の上で転がしてみる。


「……詩織」


ぎこちない響きだった。

振り返ることはなかったけれど、その肩が一度だけ、ビクリと小さく跳ねたのが分かった。

それから、とても小さく、深く、頷く。


「……連絡は、したよ。でも、Wi-Fi は切っちゃった。だから……うん、たぶん、心配してるかな」


それ以上、深くは聞かなかった。

誰にだって、家族には言いたくないことの一つや二つはある。向き合いたくない現実だってあるはずだ。


「そうか……」

努めて明るい調子を作り、肩をすくめてみせる。

「僕のほうは、もっと酷いぞ。両親は数日前から海外出張で、家には誰もいないんだ。だから連絡すらしてない」


自嘲気味に笑って、続ける。

「どうせ……僕がいないことにすら、気づいてないだろうしね」


顔が上がった。

微かな月明かりとライトの反射で、こちらを見つめる視線を感じる。

その唇の端が、苦笑とも、あるいは安堵ともつかない曖昧な弧を描いた。


「それ、私とは全然違うじゃない」

「……ま、そうだな」


夜風が森の奥から吹き抜けていく。

夜露よつゆを含んだ冷たい風が、耳元の後れ毛を優しく撫で、暗闇の中で微かに揺らしていた。


違う境遇、違う種類の孤独。

けれど今、この暗闇の中でだけは、二人の輪郭は静かに重なっていた。


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