紫の薄明、僕らは世界を迷い込む

歩みを進めるにつれ、景色が静かに変貌を遂げていく。

広々とした農地が途切れ、視界は鬱蒼うっそうとした木々に覆われ始めた。足元のアスファルトは砂利敷きの林道へと変わり、坂の勾配も明らかにきつくなる。


木陰に足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気が一変した。

纏わりつくような下界の熱気が消え、ひんやりとした山の冷気が首筋を抜けていく。見上げる茂みの隙間からは、木漏れ日が不規則な斑紋を描いて、砂利の地面に落ちていた。


林道の入り口。

先行していた小さな背中が立ち止まり、蛇のように蜿蜒えんえんと続く上り坂を仰ぎ見た。

横顔に一瞬だけ、拭いきれないかげりが差したように見えたが、すぐに小さく息を吸い込む気配がして、視線が真っ直ぐ前を向く。


「……よし。いよいよ、登山開始だね」


努めて明るく響かせた声は、自分自身に言い聞かせるような切実さを孕んでいた。

眼前にそびえる急坂を見やり、喉元まで出かかった不安を言葉に乗せる。


「ここからは体力勝負だぞ。大丈夫か?」

「うん、平気」


振り返った笑顔が、木漏れ日の中で柔らかく揺れた。

額にはうっすらと汗が滲み、白い頬は運動の火照りで林檎のように赤らんでいる。

ピースサインも、気取った掛け声もない。

ただ、その瞳だけが、静かに、けれど強く燃えていた。


「行こう」


短く告げると、砂利道に足が踏み出された。

その足取りは、先ほどまでの平地を歩いていた時よりも幾分か重い。肉体的な疲労の証であり、同時に、それでも進もうとする意志の重さそのものだった。


何も言わず、その背中を追う。

無理をさせないよう、その歩幅に合わせて、こちらのペースを落としながら。


***


ジャリッ、ジャリッ……。


靴底が小石を踏みしめる乾いた音が、森の静寂に吸い込まれていく。

耳元を掠めていた風の音は、いつの間にか完全に止んでいた。


世界に残されたのは、互いの呼吸の音だけ。

ハァ、ハァという浅い息遣いが、すぐ隣にあるかのように生々しく鼓膜を震わせる。


「あっ——」


不意に、前を行く足元がふらついた。

浮き石に足を取られたのか、華奢な肩がぐらりと傾く。


思考よりも先に、体が動いていた。

咄嗟に伸ばした手が、細い手首を空中で掴み取る。


「っと、危ない!」

「……っ!」


グッ、と引き寄せた瞬間——

掌に飛び込んできた熱に、息を呑んだ。


冷涼な山の空気の中で、触れた肌だけが、驚くほどに熱い。

それは運動による火照りというより、もっと芯から発せられているような——生命そのものを焦がすような温度。


体勢を立て直すと、彼女は小さく唇を引き結び、パチパチと瞬きを繰り返した。


「……ありがとう」


乱れた前髪を耳にかき上げながら、視線を落とす。

平静を装っているようだが、露わになった耳の先は、熟れた果実のような朱色に染まっていた。


ふわりと、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

汗と、シャンプーの残香と、春特有の湿った土の気配。

それらが混じり合った熱気が、顔を掠めるほどの距離にある。


「……さっき標識があった。あともう少し先に、休憩用の東屋あずまやがあるはずだ」


この濃密な空気を振り払うように、あえて事務的な口調を選んだ。


「そこで少し休もう」

「……うん。分かった」


小さく頷くのを確認して、ゆっくりと指を離す。

けれど、空になった掌には、焼きついたような熱が残っていた。

まるで残り火のように、じんわりと、肌の奥でくすぶり続けている。


再び、歩き出す。

歩速は、先ほどよりもさらに緩やかになった。

けれど不思議なことに、二人の距離は、さっきよりもずっと近づいている気がした。


斜陽が幾重にも重なる葉を透過し、複雑な光の模様を足元に描き出す。

止まっていた風が、再び谷底から吹き上げてきた。

その風が、シャツの裾を、髪を、優しく揺らしていく。

木々の香りと、雨上がりのような土の匂い。


ふと、気づいてしまった。

二人の距離を縮めたのは、歩みではない。

互いの鼓動が、この静寂の中で引き寄せ合ったのだと。


不意に、視界が開けた。

見えない手が、鬱蒼とした木々のとばりを左右に押し広げたかのようだった。


そこは登山道の突き当たり。

眼下に広がる西側の谷を睥睨へいげいするように、古びた木造の東屋がぽつりと佇んでいる。長い年月、この景色をたった一人で守り続けてきた番人のような、静かな佇まいだった。


谷底から吹き上げてくる風には、草木と土の匂い、そして夕暮れ特有の気怠い熱が溶け込んでいる。空気が、肌にまとわりつくように柔らかい。


「着いたぁぁ……!」


糸が切れた操り人形のように、隣の影がベンチへとなだれ込んだ。

ドサリ、と床板を叩くリュックの重い音が、登山の終わりを告げる。


「……大袈裟だな」

呆れ半分、面白がり半分で、乱れた髪の隙間から覗く頭頂部を見下ろした。


「うるさいなぁ……いたわりってものを知らないの?」

抗議の手を上げる余力すらないらしい。背もたれに預けた身体は、熱で溶けたマシュマロのように形を失っている。


「じゃあ、戻るか? 今ならまだ下山も間に合うぞ」

親指で、今しがた登ってきたばかりの薄暗い獣道を指す。


「ここまできて逃げるわけないでしょ……探検家に後戻りはないの!」


言うが早いか、放物線を描いて未開封のペットボトルが飛んできた。

胸元で受け止めたその冷たさに、小さく息をつく。


「心配して言ってるんだけどな」

キャップをひねる乾いた音。隣に腰を下ろし、結露した容器を差し出した。


「……ありがと」

受け取る指先が、驚くほど熱く火照っていた。

ゴクゴクと喉を鳴らす音が静寂に響き、やがて満足げな吐息が漏れる。

「ふぅ……生き返った」


***


ふと顔を上げると、太陽が向かいの稜線りょうせんに口づけようとしていた。


刺すような白い光が収束し、世界はまるで静止した絵の具の海に浸されたかのように、色彩を濃厚に変えていく。現実と夢の境界線が曖昧になる——そんな色調が、じわりと辺りを侵食し始めていた。


谷を埋める薄い霧。墨絵のようなシルエットに沈んでいく山並み。

吹き下ろす風が汗ばんだシャツを冷やし、空の端に残っていた雲を散らしていく。


頭上には、息を呑むようなバイオレットのグラデーションが広がっていた。

地平線で燃え盛るだいだいは、天頂へ向かうにつれて柔らかなローズパープルへと移ろい、最後には夜を予感させる深い群青へと溶けていく。


色彩が潮のように満ち引きし、世界がゆっくりと、別の時空へとスライドしていくような錯覚。


「……きれい」


手すりに身を乗り出した横顔が、燃え尽きようとする空を凝視している。

暮色が、その華奢な輪郭を金と紫の光で縁取っていた。

風に遊ばれる髪、長い睫毛、そして頬の柔らかな産毛までもが、透明な光の粒子を纏って輝いている。

それはあまりに美しく、今にも光に溶けて消えてしまいそうなほど、脆く見えた。


「ねえ、悠人」


振り返らないまま紡がれた声は、夕凪に溶けてしまいそうなほど頼りない。


「こういう時間のこと、『逢魔おうまが時』って言うの、知ってる?」

「妖怪に出くわすってやつか?」

「妖怪だけじゃないよ」


逆光の中、細い指先が持ち上がり、沈みゆく太陽のふちをそっとなぞった。


「昼と夜が入れ替わって、世界の輪郭がぼやける瞬間。だから昔の人は言ったの——一日のうちで一番奇跡が起きやすくて、一番……自分がどこにいるか分からなくなってしまう時間だって」


ゆっくりと、視線がこちらを向く。

その瞳の奥にはすみれ色の空が映り込み、その中心に、小さな僕の姿が閉じ込められていた。


「悠人」


呼ばれた名前が、夕闇に散らばるラベンダーの香りのように、鼓膜を優しく揺らす。


「私たち、今——どこか別の場所に、迷い込んじゃったのかな」


夕焼けが、薄いうすぎぬのように二人を包み込む。

足元で長く伸びた二つの影は、いつしか境界を失い、一つに重なり合っていた。


風が吹き抜け、互いの服の裾と髪を揺らす。

夜の気配がじわりと足元から這い上がり、まるでこの世界に、二人しかいないような錯覚を加速させる。


それは、迷子になるには、あまりにも美しすぎる夕暮れだった。

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