長く伸びた二つの影、重なる歩調
ブレーキが軋む金属音が響き、列車が重たい体躯を揺らして停止する。
プシュー、と気が抜けたような排気音と共に、ドアが開いた。
待ちきれないと言わんばかりに、軽い足音が真っ先にホームへと飛び出していく。
群青色の空に向かって、思い切り両腕を広げる背中。
「ん〜っ、着いたあ——!」
続いて降り立った足裏に伝わる感触は、硬く、そしてどこか頼りない。
ホームとは名ばかりの、粗いコンクリート板を並べただけの足場だ。転落防止の柵もなければ、点字ブロックの黄色い警告もない。あるのは、縁の方に引かれた、年月で擦り切れかけた白線一本だけ。
視線を遮るものは何もない。
線路の彼方には、深緑の山脈が波打つように連なり、麓には掘り返されたばかりの黒褐色の畑がパッチワークのように広がっている。
鼻腔をくすぐるのは、湿った土と、青草の匂い。
ひんやりと冷たく澄んだ空気が肺の奥まで染み渡り、眠っていた感覚が鮮明に覚醒していく。
ゴト、ゴト、ゴトン……。
背後で気動車が動き出す。重たい鉄の音が遠ざかり、やがて山あいのカーブを曲がって見えなくなった。
その瞬間、世界から音が消えた。
発車ベルも、アナウンスも、人の話し声もない。
ただ、木々を揺らす風のざわめきだけが、波のように寄せては返す。
「……なんか、『着いた』って実感が湧かないな」
あまりの静けさに、呆然と周囲を見渡す。
「ここは、本当に駅なのか?」
「なに言ってんの。乗り物酔いでもした? 降りる駅は合ってるよ」
桜井さんは、ホームの中央にポツンと立つ、錆の浮いた駅名標を指差した。
「ほら。ボロボロだけど、ちゃんと書いてあるでしょ」
出口へと向かう足取りが、砂利を踏む。
自動改札機も券売機もない。あるのは、風雨に晒されて灰色にくすんだ木造の待合所だけだ。
その柱の脇に、簡易型のICカード読み取り機が、まるで異物のようにポツンと立っていた。
時代に取り残されたような風景の中で、それだけが妙に現代的で、浮いて見える。
「無人駅、か……」
機械にカードをかざす。
『ピピッ』
無機質な電子音が、静まり返った山谷に鋭く響き渡った。
そのあまりの唐突さが、ここが日常から切り離された場所であることを、残酷なまでに突きつけてくる。
「これで正真正銘、田舎に来ちゃったね」
楽しげに、遠くの稜線を指差す。
「見て。街の灯りがないから、空がすごく近く感じる」
顎を上げ、雲ひとつない天頂を見上げる横顔。
その瞳に映る空は、都会のビルの隙間から切り取ったそれとは違い、どこまでも深く、吸い込まれそうなほど透き通っていた。
「ねえ、あの丘の上からなら——」
弾んだ声が風に乗る。
「きっと、星が手に届くくらい近くに見えると思わない?」
指差された先——長く続く一本道と、その果てにある小高い丘を見上げて、思わずため息が漏れた。
「……君ってやつは、本当に探検気質なんだな」
「当たり前でしょ。ほらほら、行こ! グズグズしてたら日が暮れちゃう」
遠足に来た小学生のようにリュックを揺らし、あぜ道へと軽やかに足を踏み出す背中。
その足取りはあまりに危うく、それでいて自由に見えた。
「おい、待てって」
待合所の壁に貼られた、色褪せた時刻表を指で叩く。
「帰りの終電、21時48分だぞ。これを逃したら、本当に山の中で野宿になるからな」
「いいじゃん、野宿! ロマンチックで」
「僕はサバイバル術なんて持ってないぞ」
振り返りもせず、ヒラヒラと手を振って遠ざかっていく。
唯一の補給庫である鞄のベルトを握りしめ、苦笑するしかなかった。
小さくなっていく背中と、眼前にそびえる雄大な緑。
観念して、その後を追う。
アスファルトを叩くローファーの乾いた音が、静かな田園に響く。
太陽は西に傾き始め、斜めから差し込む光が足元で踊っていた。
二つの影は長く伸び、少し右に傾きながらも、ぴったりと寄り添ってついてくる。
田んぼの奥から吹き抜ける風が、青臭くも懐かしい
胸のつかえが取れたように、呼吸が軽くなる。
前を歩く彼女は、一度も振り返らない。
けれど、ふと気づく。その歩調が、わずかに緩んでいることに。
まるで、追いつくのを待っているかのように。
歩幅を合わせながら、思う。
彼女を追いかけているようで——実は、あの細い影に手を引かれて歩いているだけなのかもしれない、と。
前を行く足音が、唐突に止まった。
くるりと
逆光の中で弾けた笑顔は、視界を白く焼き尽くすほどに眩しかった。
「遠くないよ! スマホのナビだと、
「……で? そこから登るのにどれくらいかかるんだ?」
「んー……」
小首を傾げ、人差し指を顎に当てる。視線は空の彼方を泳ぎ、見えない天秤で何かを計量しているようだ。
「一時間、くらいかな?」
「一時間……!?」
肩に食い込む通学鞄が、一瞬にして鉛のような質量を帯びた。
春特有の、湿り気を帯びた生温かい空気が、遮るもの一つない一本道に降り注いでいる。逃げ場のない陽射しが、じりじりと肌を焼く。
「暑い……」
ワイシャツの襟元をパタパタと引っぱり、微かな風を送り込む。背中には、もうじっとりと不快な汗が張り付いていた。
「あ、見て!
こちらの疲労などどこ吹く風か、興奮した声が春の野に響く。
指差された先——掘り起こされたばかりの黒々とした
「はいはい、見ましたよ」
気のない返事を投げ、ずり落ちてくる鞄のベルトを乱暴に引き上げる。
菜の花の黄色に挟まれた一本道を歩くこと、約二十分。
視界を埋めていた水田は徐々に鳴りを潜め、民家が点在する集落へと景色が移ろう。
遠くで犬が吠え、耕運機のエンジン音が重低音で唸っている。どこか懐かしく、そしてひどく寂しい音。
「ねえ、悠人」
不意に、軽やかな気配が歩調を緩め、隣に並んだ。
「こういう場所、来たことある?」
「ないよ。僕は生粋のシティボーイだからな」
「ふふ、私も。だからすごく新鮮」
胸いっぱいに空気を吸い込む。
肺の底に
「空気の味が、学校とは全然違う」
その言葉に、思わず足を止めた。
「ちょっと待て。……君も初めてなのか?」
「当然でしょ。冒険っていうのは、知らない場所に行くから冒険なんじゃない」
悪びれる様子もなく、誇らしげに胸を張る。
その無防備な——あるいは、失うものなど何もないような
「……じゃあ、最初は一人でこんな知らない場所に来るつもりだったのか?」
問いかけた瞬間、隣の空気がわずかに震えた。
アスファルトを蹴る足音がピタリと止む。
すぐには返事がなかった。彼女は吸い込まれそうなほど透明な空を見上げ、言葉を探しているようだった。
やがて、春の風に溶けるような声が落ちてくる。
「どうかな……」
空を見ていた瞳が、ゆっくりとこちらへ下りてくる。
ハッとするほど澄んだその視線に、不意に心を射抜かれた気がした。
「悠人に会わなければ、きっと計画止まりだった気がする」
「え……」
「誰かと一緒なら……」
言葉を切り、何かを確かめるように小さく首を横に振った。
そして、口元の笑みを、花が綻ぶように深くする。
「ううん、違う」
一歩、距離が縮まる。
甘いシャンプーの香りが、草いきれの中に混じった。
「今思うとね。君と一緒だからこそ、見に行ける景色なんだと思う」
風が、止まった。
田園の静寂の中に、遠くの耕運機の音と——不甲斐ないほど早くなった自分の心臓の音だけが、痛いほど鮮明に残された。
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