窓に映る、ひとりじゃない景色
頬を撫でていく風が、昼下がりの匂いを運んでくる。
ベンチに並んで座り、遅い昼食をとる。
この静寂を破るのは、おにぎりの包装フィルムを剥がすパリパリという乾いた音と、ホームのフェンスを微かに揺らす風の音だけ。
学校での昼食も、きっとこんな風景なのだろうか。
ただ席に座って、これといった話題もなく、机を挟んで向かい合って。
……いや、違う。決定的に何かが違う。
盗み見た視界の端、すぐそこに柔らかな体温がある。
机という防壁はなく、ただ肩を並べて座っているこの距離感。
学校の教室よりも、今のほうが——ほんの数センチ、心に近い場所にいる気がした。
足元の陽だまりが、じりじりと位置を変えていく。
まるで時間そのものが、誰にも気づかれないようにつま先立ちで進んでいるかのように。
不意に、駅の構内放送が響き渡った。
『まもなく、一番線に、列車が参ります——』
無機質なアナウンスが空っぽのホームに反響し、短くも穏やかなランチタイムの終わりを告げる。
「あ、来た!」
あんぱんの最後の一口を慌てて飲み込み、隣の影が勢いよく立ち上がった。
口の中に残る甘い余韻を楽しむ間もなく、その表情は再び、どこか危うい「冒険者」のものに戻っている。
ガタン、ゴトン——。
鉄の車輪がレールを叩く音が、陽炎の向こうから近づいてくる。
春の光を鈍く反射させながら、車両がゆっくりとホームに滑り込んできた。
プシュウ、と気の抜けた音を立ててドアが開く。
低い唸りを上げ、列車がホームを離れていく。
たった二両編成の気動車。
都市部の電車とは違う、腹の底に響くようなエンジンの重低音が床から伝わってくる。微かな空調の駆動音だけが、残された車内の静寂を埋めていた。
人影はまばらだ。
ボックス席に座る二人の他には、離れた席で舟を漕いでいる地元の老人と、大きなリュックを背負った登山客が一人だけ。
まるで、この車両だけが世界から切り離され、別の次元へ向かっているような錯覚を覚える。
動き出しはゆっくりと、コマ送りのように。
しかし瞬く間にリズムを早め、窓外の景色は流線型の光となって後方へと飛び去っていく。
その流れるキャンバスの上に、半透明な影が浮かんでいた。
頬杖をつき、ぼんやりと外を見ている横顔。
ガラスに映る姿は、どこか現実味がない。
隣に座っているはずなのに、流れていく風景の一部になってしまったかのような——今にも光に溶けて、消えてしまいそうな儚さがあった。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
沈黙を破ったのは、風のような独り言だった。
エンジンの音にかき消されてしまいそうな、小さな声。
「一人の時間も、好きなんだけどね——」
ガラスに映る自分自身へ、あるいはその向こうの景色へ語りかけるように。
「でも、誰かが隣にいると……景色って、不思議と綺麗に見える気がする」
言葉を探すように、映り込んだ瞳が伏せられる。
「だから、その……ありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」
窓は閉め切られているはずなのに、心の隙間に風が吹き込んだ気がした。
その風は、言いたかった言葉を喉の奥へと押し戻し、捕まえさせてくれない。
——『一緒に、来る?』
あの時の声が、脳裏で反響する。あの真っ直ぐな瞳。
出会ったばかりのクラスメイトと、学校をサボり、警備員から逃げ出し、今はこうして列車に揺られている。
すべては、星を見に行くために。
流れる景色を目で追いながら、意識の端で、窓に映る影を捉え続ける。
形のない何かが、背中を押している。
何か言わなければ、この感情が溢れてしまいそうだった。
だから、あえておどけたように肩をすくめてみせた。
「……まあ、スポンサーのおかげで、さっきのアイスは格別に甘かったからな」
照れ隠しの軽口。
呆れたように窓の外を見たまま、けれど、ガラスに映るその口元は微かに弧を描いていた。
控えめな笑顔を見た瞬間、心の中に築いていた防波堤が、音を立てて崩れていくのが分かった。
その時——
不意に、窓外の光が断ち切られた。
ゴォォォォッ——!!
列車がトンネルに突入したのだ。
流れていた緑の風景は漆黒の闇に飲み込まれ、窓ガラスは完全な鏡へと変わった。
轟音が世界を包み込む。耳がツンと痛くなるような気圧の変化。
「……でも」
この暗闇と轟音に紛れてなら、言える気がした。
声を少しだけ張り、けれど正直な音を吐き出す。
「少し、楽しみになってきたよ。今夜の星空」
鏡の中で、彼女がハッとしてこちらを向いたのが分かった。
その声は、騒音の中でも不思議なほどはっきりと鼓膜に届いた。
「うん。きっと、綺麗だよ」
言葉の余韻が終わるか終わらないかの、その刹那——。
列車がトンネルを抜けた。
パアァッ!
暴力的なまでの光が、一気に車内へとなだれ込む。
逆光の中で、横顔の輪郭が白く発光した。
長い睫毛、透き通るような肌の産毛、微かに開かれた唇の色。
——息を、呑んだ。
ただ、近くにいる。
それだけで、世界がこんなにも彩度を増して見えるなんて。
慌てて視線を外し、窓の外へと顔を背ける。
心臓が早鐘を打っている。その振動がシートを伝って、隣に聞こえてしまうんじゃないかと焦るほどに。
けれど隣の少女は気づいていない様子で、ただ静かに流れる光を見つめ、満足そうに微笑んでいた。
もう、誰も喋らなかった。
しかしその沈黙は焦燥を呼ぶものではなく、温かい毛布のように、二人を優しく包み込んでいた。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
シートに体を預け、規則的な揺れに身を任せる。
車窓は連なる山々から開けた河原へと変わり、時折、無人の小さな駅を通過しては、また田園風景の中へと滑り込んでいく。
目的地は、もうすぐだ。
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