春のカイロと、あんぱんの甘い熱

桜井さんが屋台の列に並んでいる隙に、すぐそばのコンビニへと足を向けた。

ウィーン、とモーター音が鳴り、ガラスの扉が左右に開く。

「いらっしゃいませー」

店員のマニュアル通りの声。それと同時に、強めに設定された冷房の風が、汗ばんだ肌を撫で上げた。


人工的な冷気。

外の熱気から遮断されたその空間に、ふっと肺の空気が抜ける。

アイスクリームを目にした時の桜井さんも、この冷風を浴びた時のように、張り詰めた何かを緩めていたのだろうか。

……単に、空腹が満たされる予感に喜んでいただけかもしれないが。


「電車に乗るし、腹ごしらえは必要か」

これから向かう場所まで、どれくらい歩くことになるか分からない。

商品棚を流し見ながら、鞄の隙間に押し込みやすそうなものを無意識に選別していく。


ツナマヨと鮭のおにぎり。あんぱん、焼きそばパン。

炭水化物ばかりだが、今の二人にはエネルギー効率が最優先だ。


「流動食も……あったほうがいいか」

ウイダーinゼリーを二つ。エネルギーとビタミン。

それから、カロリーメイトのゼリー飲料タイプ。

固形物が喉を通らない状況。そんな不吉な想定が、なぜか頭の片隅を掠めた。


「水は……多めに」

脱水症状で倒れられても困る。

ミネラルウォーターを二本、念のためにポカリスエットを一本。

カゴに、ずしりとした重量が加わる。


レジへ向かう動線、ふと視界の端に違和感が引っかかった。

『春だからって油断大敵! 夜の冷え込みは風邪のもとですよー』

レジ横の小さなモニターから、軽快なジングルと共に安っぽい宣伝文句が流れている。


「春の夜冷え対策」

そのポップの下に積まれていたのは、季節外れの使い捨てカイロだった。

赤と白のパッケージが、蛍光灯の下で妙に浮いて見える。


夜の、冷え込み。


脳裏に蘇るのは、先ほど握った手首の感触だ。

あんなに全力で走っていたのに、桜井さんの手には脈動する熱がなかった。

まるで繊細な陶器のような、無機質な冷たさ。


「……これも」

思考するよりも早く、指先がカイロの小袋を摘み上げていた。


「お会計、1980円になります」

財布から千円札を二枚引き抜く。

高校生の財布には痛い出費だが、必要経費だと自分に言い聞かせた。


「20円のお返しです。袋はご利用ですか?」

「いえ、そのままで」

レジ袋を断り、購入した食料と水を鞄に詰め込む。

まだ教科書の揃っていないスカスカの鞄が、一気に重量を増した。


「ありがとうございました」

背中に投げかけられる挨拶を聞き流し、自動ドアをくぐる。


途端、四月の日差しが視界を白く染め上げた。

むっとする熱気。

肩に食い込むベルトの重みが、さっきまでとは違う。

それは水と食料の重さであり――これから始まる「逃避行」という共犯関係の重さそのものだった。


屋台の近くへ戻ると、桜井さんが両手にソフトクリームを掲げて立ち尽くしていた。

溶け落ちないように必死にバランスを取りながら、こちらを見つけて眉を寄せる。


「悪い、待たせた」

「あーっ、一人だけ涼しいところに隠れてたでしょ。どうりで探してもいないわけだ」

「買い出しだよ。……にしても、よく盗み食いせずに我慢できたな」

「両手が塞がっててどうやって食べるのよ。ほら、早くして! 悠人のぶん、垂れてきちゃう!」

「悪い悪い」


慌てて手を伸ばし、彼女の右手から溶けかけたミルクソフトを救出する。

指先に触れたクリームが、ひやりと冷たい。

入れ替わりに、鞄から冷えたミネラルウォーターを取り出し、空いた彼女の手のひらに押し付けた。


「はい、これ」

「あ、どうも」


冷たいペットボトルを握りしめ、左手に残った抹茶ソフトと、右手の水を交互に見比べる。

そして、片眉を器用に上げてみせた。


「……なんかこれ、等価交換じゃない気がするんだけど」

「文句言ってる間に溶けるぞ」

「もう、誰のせいだと思ってんの」

「はいはい、ごめんって」


ぶつくさ言いながらも、彼女は観念したように抹茶ソフトに口をつけた。

歩調を合わせ、並んで歩き出す。


隣を歩く表情は、真剣そのものだ。

猫がミルクを舐めるように小さく舌を動かし、目を細めて冷たい甘味と格闘している。

その横顔からは、先ほどまでの「脱走劇」の緊張感は消え失せていた。

あるのはただ、純粋な満足感だけ。

僕の中に残っていたアドレナリンも、口の中に広がるミルクの甘さと共に溶けていき、不思議な緩さが体中に満ちていくのを感じた。



人通りのまばらな商店街を抜け、駅の影へと足を踏み入れる。

ひんやりとした空気が、火照った肌を撫でるように冷やしていった。


ピッ、ピッ。

改札機が二回、無機質な電子音を鳴らしてゲートを開く。


階段をゆっくりと登り切った。

高窓から斜めに差し込む午後の陽射しが、空気中を漂う埃の粒を黄金色に染め上げている。

通勤ラッシュにはまだ遠く、学生たちの喧騒もない。

あるのは、遠くで鳴く鳥の声と、時折ホームを吹き抜ける風の音だけ。

駅全体が、午睡ごすいのような穏やかな静寂に浸っていた。


ホームの端、白い線のぎりぎりで、一対のローファーがつま先立ちをした。

身を少し乗り出し、好奇心旺盛な猫のように線路の続く彼方を覗き込んでいる。

逆光の中、その危なっかしい背中の輪郭が、光に溶けてしまいそうに見えた。


その後ろ姿を網膜に焼き付けながら、後方にある木製のベンチに腰を下ろす。

古びた木が、ギシ、と微かな悲鳴を上げた。


「……まだ来ないね」


かかとが下ろされ、コンクリートの床にコツンと乾いた音が響く。

振り返らず、遠くを見つめたままの声。


「お昼、どうするの?」


膝の上の鞄を引き寄せ、ファスナーに手をかける。

ジジッ、と布を噛む音が静寂に小さく波紋を広げた。


「まさか、さっきのアイスだけで夜まで持たせるつもりじゃないだろうな」


「あっ……」

肩がビクリと跳ねた。

慌てて振り返った表情には、隠しきれない「しまった」という色が浮かんでいる。


「わ、私、ちょっと近くで買ってくる! すぐ戻るから!」

「もう買ってある」

「え?」


「ベンチでゆっくり食べよう。乗り遅れたら、次の列車に乗ればいい」


きょとんとして、それから安心したようにふっと肩の力が抜ける。

ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきて、隣にすとんと腰を下ろした。

ベンチがもう一度、優しくきしむ。


「……うん、そうだね」


まるで宝物を取り出すように、買ってきた食料を一つずつベンチの板の上に並べていく。

「これがツナマヨ……こっちが鮭。あと焼きそばパンと——」


興味津々といった様子で、横から鞄の中を覗き込んでくる気配。

ふわりと、髪からシャンプーの甘い香りが鼻先を掠めた。


その時だった。

隣からの視線が、鞄の底の隅っこで止まった。


「ん……?」


そこにあるのは、春先には不釣り合いな、赤と白の目立つパッケージ。

使い捨てカイロだ。

一瞬、不思議そうに瞬きをして、それから——


プッ。

堪えきれないような、微かな笑い声が漏れた。

口元に手を当て、肩を小刻みに震わせている。


「……なんだよ。好みのやつ、なかったか?」

ぶっきらぼうに逸らした視線の先で、ゆっくりと顔が上げられた。

その瞳は、何かとても素敵なものを見つけた時のように、キラキラと輝いている。


「ううん」


笑いを噛み殺しながら、ごく何でもないことのように手が伸び、あんぱんを掴んだ。


「じゃあ、私はこれにする。……ごちそうさま、悠人」


その声には、あんこよりも甘く、優しい響きが混じっていた。


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