紙飛行機と、アイスクリームの理論
「なあ、桜井さん。このあと堂々と正門から出るつもりか?」
声を投げかけると、前を行く足がピタリと止まった。
一拍の間。観念したようにゆっくりと振り返るシルエットは、春の逆光に溶けて表情が読み取れない。ただ、困ったように小首を傾げる無防備な仕草だけが、網膜に焼き付いた。
「……悠人は、他の抜け道とか知ってたりする?」
「僕も新入生だぞ。知るわけないだろ」
「そっか。じゃあ、作戦続行で」
「作戦?」
「強行突破(仮病バージョン)よ。Go! Go!」
言い終わるや否や、ドサッと重みが肩にのしかかった。
不意に触れる、自分以外の体温。制服越しに伝わる柔らかな感触と、微かなシャンプーの香りが、意識の表層をざわつかせる。
——いや、違う。
すぐに気づく。全身の力が、完全に抜けている。自分で立とうとする意志を放棄し、全体重をこちらに預けきっているのだ。まるで炎天下、中身の詰まった重い砂袋を引きずらされている気分だ。
そんな奇妙な二人組が校門に近づけば、当然、詰め所にいた警備員が不審げに窓を開ける。
「君たち、どうしたんだ?」
窓の隙間から、古びた紙と酸化したインスタントコーヒーの匂いが混じり合って漏れ出した。
「あ、あの……今日は早退することになって……お腹が痛くて……」
肩口で、消え入りそうな震える声が紡がれる。演技力はアカデミー賞ものだ。
「さっき家族に連絡して、外で待ってもらってるんです……」
「そうか、それは大変だ。手伝おうか? 車、中まで入れてもいいんだぞ」
警備員は親切だった。親切すぎて、こちらの良心がキシキシと軋む。
「いえ! いえいえ! 歩いていけますから! まだ来てないかもしれないし!」
慌てて振られた手が、僕の鼻先を掠めた。その拍子に、ずるりと肩から滑り落ちそうになる身体を慌てて支える。
「じゃあ、そこに扇風機と椅子があるから、中で待ってなさい」
「えっ、あの、それは申し訳なくて……」
ダメだ。詰めが甘すぎる。
しどろもどろになっている共犯者を見かねて、僕はため息を一つ飲み込み、覚悟を決めて口を開いた。
「すいません。家族はもうすぐそこまで来てるんです」
できるだけ深刻そうな表情を作り、警備員の目を真っ直ぐに見据える。
「僕は兄です。こいつ、昔から気が強くて。体調悪いくせに無理して学校来るから……人の好意に甘えるのが苦手なやつなんで、本人の気が済むようにさせてやってください」
我ながら、滑らかな嘘が口をついて出る。
よし、これで —— と思った矢先、警備員の眉が不自然に動いた。
穏やかだった空気が、ふと
「おや、変だな。君たち二人、さっき登校してきたばかりじゃないか? 妹さんの方なんて、君より十分以上遅れて入ってきたのを覚えているよ」
時間が、凍りついた。
春の風が止み、遠くで鳴くカラスの声だけが鮮明に鼓膜を叩く。
完全に、バレている。
その時、腕の中の顔がバッと上がった。
さっきまでの苦悶はどこへやら、その瞳は悪戯を思いついた子供のように爛々と輝いている。
突然、空の彼方を指差して叫び声が上がった。
「あ! あそこに紙飛行機が!」
「は?」
僕と警備員の視線が、つられて同時に空を仰いだ瞬間。
手首を、痛いほどの力で掴まれた。
「走って!!」
「えっ、おい、桜井さん!?」
有無を言わさず引かれる身体。脱兎のごとく駆け出した。
背後から「こら! 何組だ! 待ちなさい!」という怒号が弾けるが、もう振り返らない。アスファルトを蹴るローファーの乾いた音が、心臓の鼓動と重なって激しく響く。
——やばい。
でも、走りながら思ってしまった。
こんな馬鹿げた瞬間を、誰かと共有するのは初めてだ。
全力疾走。
景色が猛スピードで後ろへと流れ去り、色彩が線になって溶けていく。
肺が熱く焼け、喉がヒリつく。それでも足は止まらない。
バス停まで一気に走り抜け、二人してベンチになだれ込むように崩れ落ちた。
「はあ、はあ……まさか、初日からやらかすとは……」
肩で息をしながら絞り出すと、隣で顔を紅潮させた桜井さんが笑っていた。乱れた前髪の隙間から覗く瞳が、興奮で潤んでいる。
「私……こんなに早く走ったの、初めてかも」
「……あと数回もやれば、学校に来る必要すらなくなるぞ。退学で」
「ひどい言い草ね。捕まってないんだからセーフでしょ」
「顔も割れてるし、完全にアウトだよ」
まあ、ここまで来てしまえばどうしようもない。
呼吸が整うのを待ってから、滑り込んできたバスに飛び乗り、最寄りの駅へと向かった。
バスを降りると、そこには「平日の街」が広がっていた。
制服姿の二人は、この景色の中で明らかに異質だった。
すれ違う忙しそうなスーツ姿の大人たち。幸せそうな私服のカップル。街全体が、学校という閉鎖空間とは違う、自由で奔放なリズムで動いている。
普段なら教室の窓から切り取られた空を眺めるだけの時間に、こうして外を歩いている。
それはなんとも言えない背徳感と、胸がすくような奇妙な開放感だった。
隣を歩く気配も、少し静かになっていた。
ショーウィンドウに映る自分たちの姿を見つめながら、その「非日常」を噛み締めているように見える。
ふと、ガラスの中の自分が、僅かに口角を上げていることに気づいた。
心が、軽い。
一人だったらただの「サボり」だが、共犯者がいると、それは「冒険」になるらしい。
この浮ついた空気感に、僕は意外なほど心地よく浸っていた。
「……なに? 悠人、何笑ってるの」
不審そうに下から覗き込んでくる瞳。
「いや。周りの人たちが見てるなと思って。どうせ、サボりの変人だと思われてるんだろうけど」
「ふふっ。真面目そうな顔して、校門出たら随分と変わるのね」
「君もな」
「いいじゃない。どうせ出てきちゃったんだから、早めの放課後だと思って楽しまなきゃ」
「まあ、そうだな」
その時、桜井さんが小走りで前へ出た。
通りの向こう、赤と白のストライプ柄の屋根。甘い香りを漂わせる屋台を指差す。
「あ、アイスクリーム! 私、抹茶が好き!」
振り返った笑顔は、先ほどの「病弱演技」が嘘のように——いや、命の灯火を燃やすように輝いている。
「そうか。行ってらっしゃい」
「……違うでしょ。ここは悠人が『じゃあ買ってやるよ』って言う場面」
「なんでだよ」
「だって、四捨五入したら、これデートみたいなものでしょ?」
……すごい計算式だ。どこをどう四捨五入すれば、共犯者の逃避行がデートになるんだ。数学教師が聞いたら卒倒するレベルの論理飛躍。
呆れつつも、冷静に切り返す。
「……あのな、桜井さん。誘ってきたのは君のほうだぞ」
「え?」
「僕は君の誘いを『受け入れてあげた』側だ。つまり、君が僕をもてなすべきだろ」
真っ直ぐに見据えて、片手を差し出す。
「というわけで、逆に君が買うべきだ。僕はミルク味で。よろしく」
桜井さんはぽかんと口を開け、それから頬を大きく膨らませた。
完全に論破された顔だ。
「……うぅ、可愛くない」
「なんとでも」
「やっぱり、安易な慈悲の心で野良猫なんて拾うんじゃなかった……」
ブツブツと文句を言いながら、不服そうに財布を取り出し、ドスドスと屋台へ向かっていく。
遠ざかるその背中を見送りながら、小さく息を吐き出すと、自然と笑いが込み上げてきた。
四月の風が、甘いミルクの香りを運んでくる予感がした。
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