第一章

昼の星と、水槽の外

四月の陽光が、埃の舞う静かな教室を鋭角に切り取っていた。

窓の外からは、運動部の掛け声やブラスバンドの音色が遠く滲んで聞こえてくる。けれど、それらは分厚いガラスに隔てられた水槽の外の出来事だ。ここにあるのは、朝特有の、時が止まったような透明な静寂だけ。

壁掛け時計の秒針は、授業の真っ真っ只中である十時十五分を無機質に刻み続けている。


教室の窓際、後ろから二番目の席。

活字の海に深く潜っていれば、新学期の息苦しい空気も忘れられた。古びた紙とインクの匂いだけが、今の世界のすべて。文庫本から視線を上げることなく、ただページを繰る指先だけで時間を消費していく。


ふと、気配に顔を上げた。

急いで着替えに向かったせいか、周囲の机や椅子はどれも不規則に乱れたままだ。

この静寂の中で、整然と並んでいるのはたった二つ。自分の席と、そこにあるあるじのいない空席だけ。黒板の隅、座席表の並びに視線を走らせる。隣の枠には、確か『桜井』とあったはずだ。


「あれ? まだ来てないの?」


鈴を転がしたような明るい声。

廊下側の窓から、ロングヘアの女子生徒が顔を覗かせていた。だが、教室がもぬけの殻であることに気づくと、不思議そうに小首を傾げる。

ふいに視線が合い、「あ、ごめん!」と短く会釈をして姿を消した。


数分後——


教室の後ろの扉が、音もなくスライドした。

そこに立っていたのは、同じクラスになるはずの少女——桜井詩織。

スマホの画面を食い入るように見つめたまま、身を低くして忍び込もうとしている。どうやら授業中だと思い込んで、教師に見つからないよう身を屈めているらしい。その姿は、猛禽類から隠れる小動物のように慎重だ。


しかし、数歩進んだところで違和感を覚えたのか、ふと顔を上げた。

ようやく教室が空っぽであることに気づき、拍子抜けしたように立ち尽くす。

その視線が、唯一の先客とぶつかった。大きな瞳が驚きに丸くなり、数秒の沈黙の後、おずおずと口が開かれる。


「……クラスのみんな、どこ行ったの?」


栞をページに挟み、淡々と事実だけを告げた。


「桜井さん。この時間は体育だ。みんな運動場にいるはずだよ」


自分の名前を呼ばれたことに気づいているのかいないのか、「あー……」と大きなため息をついて、がっくりと肩を落とす。


「時間割、確認するの忘れてた」

「慌てて学校に来たのに、大損だったな」

「ううん、全然。だって私、走ってきてないし」


悪びれる様子もなく、胸を張って言い放つ。その表情には、遅刻者特有の焦燥感など微塵もなかった。


「ちっとも『急いできた感』がないなとは思ってたけど」

「でしょ? それが大事なの。もし教室に入って息を切らしてたら、『あ、この人遅刻して焦ってる』ってすぐにバレちゃうじゃない」


人差し指を立てて、奇妙な持論を展開し始める。窓から差し込む陽光が、その細い指先を透かして輝かせていた。


「いい? もし誰かが待ってるなら、角を曲がる手前で準備運動をして、軽く小走りで現れるのがマナー。でも、静かな教室に溶け込みたいなら、最初からそこにいましたよって顔をして、何食わぬ顔で紛れ込むのが正解なの」

「……へえ」


一生使う機会のなさそうなライフハックだ。

これだけ元気よく登校しておいて遅刻するのも変な話だが、そんな矛盾など気にする様子もなく、隣の席――つまり自分の席にすとんと腰を下ろした。


黒髪がふわりと揺れ、陽だまりのような匂いが鼻先を掠める。制服のプリーツスカートが、椅子の座面で衣擦れの音を立てた。


「で、悠人はどうして一人で教室にいるの?」


当然のように名前を呼ばれた。まるで、ずっと前から知っていたかのように。その屈託のなさに、少しだけ調子が狂う。


「僕もさっき来たばかりだ。……君とは違って、体育の時間を見計らってね」

「えっ、わざと?」


目を丸くして、こちらを覗き込んでくる。


「計算して遅刻したってこと? 退屈じゃないのそれ。何も知らないまま飛び込むから、新学期って面白いのに」

「授業時間も知らずに探検気分で来るやつのセリフかよ……」

「悠人ってば、ロマンがないなあ」


頬杖をついて笑う。その笑顔を見ると、教室の張り詰めた空気が少しだけ緩んだような気がした。


会話が途切れる。

壁掛け時計の秒針が、カチ、コチ、と乾いた音を刻み続ける。

校庭からの砂埃の匂いが、風に乗って運ばれてきた。ページをめくろうとしたその時、不意に窓の外を見上げて呟きが漏れた。


「ねえ、今日って何日?」

「3日だけど」

「そっか」


迷いなく椅子から立ち上がり、鞄を手に取る。


「じゃ、私、もう帰るね」

「は?」


ページを繰る指が止まる。


「……何言ってるんだ。来たばかりだろ」

「今日は、学校に来るべき日じゃなかったみたい」


意味が分からなかった。ただの気まぐれにしては、その瞳が一瞬だけ、ここではないどこか遠くを見ているような気がした。教室の隅に落ちている影よりも、もっと深い色が、そこにはあった。


「……それは、何かの記念日か?」


尋ねると、人差し指を自分の唇に軽く当て、片目を閉じてウィンクしてみせた。

「ひ・み・つ」


それ以上、踏み込むつもりはなかった。

「そうか」とだけ返し、再び活字に意識を沈めようとする。この奇妙な隣人のことなど、物語の中に逃げ込めばすぐに忘れられるはずだ。


しかし——視線を感じる。横目で伺うと、じっとこちらを見つめられていた。


「……普通さあ、そこでもっと気にならない? どうしてそこで諦めちゃうかな」

「教えないって言ったのはそっちだろ」

「それはそうだけど。もっとこう、食い下がってくれないと」

「たまたま体育だったし、たまたま君に会ったし、たまたま今日は『学校に来るべき日』じゃなかったみたいだから」


机に身を乗り出し、顔を覗き込んでくる。

長いまつ毛の一本一本まで数えられそうな距離。


「なんかさ、このまま悠人を一人ぼっちで教室に置いていくのって、捨て猫を段ボールに残して立ち去るみたいで気が引けるんだよね」

「……喩えが意味不明なんだけど」

「だからさ」


声色が、ふっと変わった。さっきまでの冗談めいた響きが消え、どこか祈るような、切実な温度を帯びる。


「一緒に、来る?」


断る言葉はいくらでもあった。まだ授業中だ。初対面だ。本を読みたい。

けれど、言葉は喉の奥でつかえて出てこない。拒絶する理由を探せば探すほど、自分の中には何もないことに気づかされる。

空っぽなのだ。主のいないこの教室と同じように。


本を閉じた。思考するよりも先に、口が勝手に動いていた。


「……それは、何か計画があってのことか?」


パッと顔が輝き、勢いよく頷く。

「もちろん! 今日だってことを忘れてただけ!」

「……一番ダメなパターンじゃないか」


呆れながらも、机の上のものを鞄に放り込む。

彼女はスマホを取り出して手早く文字を打つと、満足げに笑った。


「行こっか」

「……まだ授業中だぞ。そんな楽しそうに廊下を歩くなよ」

「平気平気。さっき通ったとき、隣のクラスも静かだったし」


ガラララッ!


廊下を曲がろうとした瞬間、前方からざわめきが押し寄せてきた。

数十人の足音。そして、真新しい制服の群れ。B組だ。


「まずい、人だらけだ」

「えっ、嘘でしょ!?」


隣で身体がすくみ上がる。このままではサボりが見つかる。静まり返った校舎で、制服姿の二人はあまりに目立ちすぎた。


咄嗟に、その細い手首を掴んだ。

「こっちだ」


反対方向へ足を向け、すれ違いざまに教師へ頭を下げる。

「すみません、彼女、体調が悪くて。保健室へ連れて行きます」


その瞬間、桜井さんの膝ががくりと折れた。空いている手でお腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべる。視線は伏せられ、今にも倒れそうだ。

……切り替えが早すぎる。


「……君、天才的な役者だな」


教師たちが心配そうに見送る中、誰もいない階段の踊り場まで逃げ込んでから、そう告げた。

顔を見合わせ、堪えきれずに吹き出す。


「違うよ、なんでみんな戻ってくるのさ!」

「今日はオリエンテーション期間だ。B組はたしか、この時間は校内見学だったはずだ」

「えっ、そうなの?」

「体育だと思い込んでたのは僕たちのほうだったな」

「……この学校、行事のスケジュールが分かりにくすぎない?」

「入学式にも出なかったやつが言うなよ」

「悠人だって同罪でしょ」


笑い合う手は、まだ繋がれたままだった。踊り場のひんやりとした空気が、二人の間に流れる。

ふと、違和感を覚えた。


掌から伝わるのは、春の陽気を拒絶するような低い温度。生命力に溢れた笑顔とは対照的に、そこには熱の痕跡すら残っていない。まるで繊細な陶器に触れたような、静かな冷え。


「……冷たいな」


そう呟こうとした時、その手はそっと引き抜かれ、悪戯っぽい笑顔が向けられた。冷たさの理由を問う言葉は、その光に飲み込まれて消えた。


「さて、脱走成功」


窓の外、昼間の空に浮かぶ見えない星を指差す。


「行こう、悠人。今日は金星とプレアデス星団が並ぶ日なの。今行かないと、見られないんだから」

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