第2話 月下の密約

あれから一か月。

マテオたちは、ゾリアンからボートを奪うための準備を、慎重に進めてきた。

「今夜は快晴だ」

マテオが低く言う。

「計画を実行するなら、今夜しかない」


その日の夕刻、インティはゾリアンの手下――シラスに声をかけた。

三人の中で、島の連中と比較的言葉を交わせるのはインティだけだった。

「なあ、シラス」

インティは、いつもの軽い調子で言った。

「これ、飲んでみないか?」

「なんだ、それ?」

シラスは訝しげに木杯を受け取る。

「いいから。喉、乾いてるだろ?」

シラスは半信半疑のまま、一口含んだ。

「……酒じゃねえか!」

目を見開く。


「どこで手に入れた!?」

カフル島に流されてから、まともな酒を口にした者などいない。

「俺が作った」

インティは胸を張った。

「イチジクを発酵させたんだ。樽一杯分ある」

それは嘘ではなかった。

マテオたちは一か月かけて、果実酒を仕込んでいた。

「今日は太陽神の祝杯の日だろ?」

インティは続ける。

「ゾリアンに献上したら、お前の株も上がるぜ」


太陽神の祝杯の日――

本国では家族が集う祝いの日だった。

「……いいのか?」

シラスは一瞬、遠慮するように言った。

「お前が飲めばよかったんじゃねえのか」

「いいんだよ」

インティは笑った。

「ゾリアンの機嫌がよくなれば、島全体が少しは静かになる」

「……確かにな」

シラスはうなずいた。


「酒だけじゃない」

インティは続けて言う。

「干し魚と干し芋もある。宴会にはちょうどいい」

それらもまた、一か月かけて密かに準備したものだった。

「お前……いい奴だな」

シラスは上機嫌に笑う。

「誰かがお前の食い物を奪おうとしたら、俺が止めてやる」

「それは心強い」

インティは笑いながら言った。


「宴会は、日が落ちてからがいい」

インティは言う。

「今日は月がきれいだ」

「月?」

「小高い丘がある。月見には最高だ」


インティは、木々に囲まれた広場へシラスを案内した。

切り株が並び、焚き火に使えそうな木材が無造作に置かれている。

「いい場所じゃねえか」

シラスは満足そうに言った。

「ゾリアンも喜ぶ」


これもまた、マテオたちが時間をかけて整えた場所だった。

さらにこの丘はボートが置いてある場所の死角となっている。

「じゃあ、あとで酒と食い物を持ってくる」

「頼んだぞ!」


夜が訪れた。

マテオたちは酒樽と食料を運び、シラスに引き渡した。

「すげえ量だな!」

シラスは目を輝かせる。

「助かるぜ!」

「これで、しばらくは穏やかに過ごせる」

マテオはそう言った。

「任せろ」

シラスは胸を叩いた。

「お前たちは俺が守る!」

「……ありがたい」

ベンハミンが、小さく言った。

別れ際、インティは笑った。

「これでお前の評価もうなぎ上りだな」

シラスは高笑いし、宴の準備に戻っていった。


その背中を見送ってから、マテオは言った。

「……腕力だけの連中だ。疑うという発想がない」

だが、ベンハミンは笑わなかった。

「……本当に、うまくいくの?」

「今さら怖気づくか?」

インティが肩をすくめる。

「……怖いに決まってるよ!」

ベンハミンは正直に言った。

「失敗したら、殺される!」

「だから成功させる」

マテオは静かに言った。


夜八時半。

満潮の時刻が近づく。

丘の上では、ゾリアンの宴が始まっていた。

「シラス!」

野太い声が響く。

「こんな酒、どこで手に入れた!」

「へへっ」

シラスは誇らしげだ。

「太陽神の祝杯の日ですからね!」

焚き火を囲み、手下たちは酒をあおり始めた。


その様子を、インティが木陰から見張っていた。

――笑っている。

――完全に気が緩んでいる。

だが、ゾリアンだけは違った。

酒を口にしながら、鋭い目で周囲を見回している。

(……気づかれたら終わりだ)


八時半を少し過ぎたころ、インティは戻ってきた。

「……宴は続いてる

 でも、ゾリアンはまだ起きてる……」

「時間がない」

マテオは即断した。

「今だ。ボートを出す」

月明かりの下、三人は息を殺して海へ向かった。

満潮の波が、静かにボートを持ち上げる。


そのとき――

丘の上で、誰かが叫んだ。

「……おい!!」

三人は凍りついた。

だが次の瞬間、爆笑が起こる。

「飲みすぎだ!」

「寝ろ寝ろ!」

怒号は、酒に呑まれた。


「……行け」

マテオが低く言った。

三人は櫂を取った。

こうして、彼らは命を賭けて――

カフル島を離れた。

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