不眠症の上司と―― 千夜一夜の物語

櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん)

背徳のシェヘラザード



「で? 今夜は、なにを語ってくれるんだ?

 シェヘラザード――」




「で? 今夜は、なにを語ってくれるんだ?

 この出来損ないのシェヘラザードは」


 膝の上に寝ている上司、辰巳遥人たつみ はるとが言う。


 シェヘラザードは、千夜一夜物語、アラビアンナイトに出てくる美女だ。

 妻の不貞に女性不信になった王が毎夜、処女と床を共にしては殺していた。


 そんな王を止めるため、望んで王の寝所に行き。


 夜ごと、つづきの気になる話を語って聞かせては自分を殺させなかった美女がそのシェヘラザードだ。


 まあ、ここも豪華だが、王宮というほどではないな、と和泉那智いずみ なちは遥人の部屋を見回した。


 テレビからは那智がつけたお笑い番組が流れている。


 遥人はこういう騒がしい番組は嫌いなのだが、那智が勝手につける分には、文句は言わない。


 遥人の部屋の重厚なテレビ台に座ったご立派なテレビには不似合いな騒々しい番組を見ながら、那智は言った。


「えー。

 いい加減、ネタ尽きてきたんですけどね。


 ああでも、ネタが尽きたとか言ったら、殺されるんですよね、シェヘラザードって」


 膝枕をされたまま、遥人は、

「ネタが尽きたとか、そんな軽い話だったか? アラビアンナイト」

と文句を言ってくる。


 家でも職場でも細かい男だな……と思いながら、


「えー、じゃあ、さっきのお笑いのネタを」

とテレビの方を窺い那智が言うと、違うだろ、とそこにあったスポーツ雑誌ではたかれる。


「いたた……」


 職場では、鬼のように恐ろしい上司、辰巳遥人に、何故、夜ごと、膝枕をして話を語って聞かせるようになったかと言うと。


 さかのぼること、二週間前――。




 人事部の和泉那智は、専務のところに急ぎの書類を持って行ったのだが。


 専務は今いないと専務秘書の和田公子わだ きみこに言われた。


 那智よりは随分年上で、落ち着いた雰囲気のある公子だが。

 興味津々という様子で笑って言った。


「また、社長室の方じゃないの?

 さっきお嬢さんが来てらしたから」


 なにか含みのある感じだった。


 ああ……と那智は思う。


 専務の辰巳遥人は社長の娘、梨花りんかの婚約者だ。


 っていうか、梨花さんの婚約者だから、専務なんだよな。

 あの若さで。


 何事にも興味のなさそうなあの顔で、意外に腹黒いな、と那智は思う。


 いや、地位が目当てで梨花と付き合っていると決めつけるのもなんだが。

 少なくとも、梨花の人となりを知る社内の人間はみな、そう思っている。


 梨花は美人だが、かなり我儘で、プライドも高く、扱いづらいようだった。


 あれとわざわざ結婚しようだなんて、金目当て以外の何物でもない、と思っているようだった。


 でもなー、人の好みなんてそんなもんだよな。


 うちのお父さんだって、お母さんのどこがよかったんだか、と思うけど、本当に好きだったみたいだし。


 そんなことを思いながら、那智は社長室のあるフロアに上がった。

 すると、すぐそこに遥人はいた。


 ……なにやってんだ、この人。


 遥人は壁に寄り添うように立ち、その向こうを伺っている。


 どっかのスパイか、張り込み中の刑事みたいだな、と思いながら、

「あの」

と那智が声をかけようとしたとき、こちらに気づいた遥人に引っ張られ、手で口をふさがれた。


 うわっ、と思う。

 抱きつすくめられるような形になったからだ。


 冷たい雰囲気がして好みのタイプではないが。

 初めて見たときは、かなり驚いたくらいの美形だ。


 でも、顔が整いすぎてて、面白みがないよな、と那智は思っていた。


 だが、好みではないとはいえ、こんなイケメンに抱きつかれると、緊張してしまう。


 っていうか、ほんとになにやってんだ、この人、と思ったが、遥人はまた壁の向こうを見ている。


 遥人に押さえつけられたまま、一緒に覗いてみる。


 声を上げそうになった。

 遥人の婚約者のはずの梨花が若いイケメンとキスして居たからだ。


 えーと……。


「ど、怒鳴り込んで行かなくていいんですか?」


「いい。

 余計なことは言うな」

と言った遥人は、


「声を上げるなよ」

と強盗かなにかのようなことを言い、手を離した。


 ふう、とようやく息をついた那智の手を引き、空いている会議室に押し込む。


「どういうことなんでしょう。

 ああいえ、すみません」


 自分が口を挟むことではないと思ったからだ。


「お前、あの男を知ってるな?」


「はい。

 何度か見たことがありますよ。


 うちの部署に来たことはないですけど。

 どっかの営業の人ですよね。


 受付の友達が凄いイケメンだって騒いでました……あ」


 しまった。

 婚約者の浮気相手のことを堂々と褒めてしまった、と思っていると、遥人は、

「本当にお前は一言多いな」

と言ったあとで、


「まあ、別にいい」

と言う。


 なにがいいんだ、とまた思った。


「前に、俺があの男を見ていたときも、お前、現れたな」


「ああ、たまたまですよ。

 あのときは、あの方一人だったから、専務、なに見てらっしゃるのかな、と思ったんですが」


 外で靴音がした。

 遥人は今度は那智の口に手をだけをやり、黙らせる。


 二人分の足音。


 ひとつはヒールだ。

 梨花だろう。


 それが消えたあとで、手を離した遥人は言った。


「仕事が終わったら、うちに来い」

「は?」


「どうもお前の口をふさいでおく必要がありそうだ」


 それは今みたいに、手で、という話ではなさそうだった。


「いや、あの、殺さなくてもなにもしゃべりません」


「誰が殺すと言った。

 いいから、来い。


 さもなくば、今後、お前が持ってくる書類を全部突き返して、お前が会議のとき、お茶を運んでたら、足を引っ掛けて。


 ついでに、通すのが面倒くさそうな旅費交通費を発生させてやる」


 うわ~、地味に嫌なこと言ってくるな、と思った。


 特に最後のが部長と揉めそうで嫌だな、と思っていた。

 役員の旅費交通費等は那智が処理することになっている。


 経費を抑えたい部長は通すなと言い、役員は通せと言い、板挟みになることもしばしばだ。


「わかりましたよ~」

「そんな返事があるかっ」


「はいっ。

 では、専務様のおっしゃる通りにっ」


 おのれ、そう年も違わない若造のくせにー、と思ったが、口には出さなかった。


 いくら梨花の婚約者でも、ここまでの切れ者でなかったら、専務にはなれなかっただろうから。


「よし」

と言った遥人はポケットから薄い縁の眼鏡を出してかけた。


「それ、なんで、今はかけてなかったんですか」


 離れた場所に居る梨花たちを見るのに、何故、外していたのかと思い、訊いてみる。


「これは伊達眼鏡だ」

「そ、そうだったんですか」


 あの眼鏡も格好いいと言っていた連中に教えてやりたい、と思ったが、そんなことバラそうものなら、また余計なことを言うなと殴り殺されそうだな、と思っていた。


「あの、でも、私、専務の家知りませんが」


「この間、俺がさっきの男をつけてた場所にお前も来たろう」

「はあ、たまたま」


 地下駐車場の隅だ。


 太い柱が何本かあるところで、止めにくいのでみんな嫌がって、あの辺りには行かない。


 あそこで待て、と遥人は行きかけて、

「九時半頃な」

と言ってくる。


 う、九時半。


 私はそんな遅くまで仕事してませんが、と思っていると、それに気づいたらしく、

「じゃあ、携帯の番号を教えろ。

 終わったら連絡する」

と言ってきた。


「は、はい」

と言いながら、慌てて携帯を取り出した。


「それから、それ貸せ」

「は?」


「俺のハンコを貰いに来たんじゃないのか」


 あ、ああ、とすっかり忘れていた本来の目的の書類を渡すと、遥人は溜息をつき、

「いいのか、人事がこんなんで」

と言っていた。




 それにしても、婚約者の浮気を黙っておけとはどういうことなんだろうな、と専務と別れ、階段を下りながら、那智は思った。


 やっぱり、下手なことを言って、婚約解消になったら困るからだろうか。


 浮気されても梨花が好きなのか。

 それとも、噂通り、逆玉狙いの男なのか。


 金にも地位にも執着なさそうに見えるんだけどな、と思いながら、人事に戻った。




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