1-2 「監視と欺き」

その瞬間だった。

レインの胸の奥に、確かな輪郭が生まれた。


最初は使命であり、計画だった。

けれど──ガラスの向こうの小さな命が、ただ彼女を見上げたあの一瞬に、

胸の奥底に、あたたかな何かがふわりと灯った。


掌に伝わるはずのない“ぬくもり”が、確かにそこにあった。

それは計算でも論理でもない、もっと深い場所から溢れる衝動だった。


「……大丈夫。私が、あなたを守る」


自分でも驚くほど優しく、あたたかい声が零れる。

長い夜のような実験室に、ひとしずくの灯りが落ちたようだった。

その温もりは一瞬で消えることなく、静かに空気の奥に染み込んでいく。


塔の神経光が揺れ、壁を走る青白い導線が鼓動のように早まる。

冷たい室内に、見えない“何か”の視線が走った。


脈動が、緊張に変わる。


液体の揺らぎも、パネルの静電も、まるで世界が息を潜めたように沈黙する。


空気がぴんと張りつめ、耳の奥に“音のない音”が滲む。

天井のセンサーランプがふっと赤に染まり、低い電子音が鳴った。


「……来た」


レインの瞳が鋭く細まる。

塔を巡るゼウスの監視網──“神経”の巡回が、この区画に差しかかっていた。

それは誰も止められない定期的な巡回、そして“異常”を逃さない絶対の眼。


レインはコンソールに手を伸ばし、指先で薄いホログラムを滑らせる。

光が彼女の瞳に反射し、緊張で手がかすかに震えた。

「ゼウスの視覚ルートを……迂回させる」


白い冷光が走り、研究室の記録が偽装データに書き換えられる。

液体の温度、脈拍、遺伝子構成。

すべて「空のラボ」として上書きされた。


やがて、壁の向こうを淡い光が通過する。

情報層を這うような細長いセンサー群が、ガラスの向こうを“なぞる”ように滑っていった。

監視AI、ゼウスの「眼」。


レインは息を殺し、ガラス越しのナユタを抱くように視線で覆い隠す。

モニターのインジケーターが緑に戻る。


──欺いた。


レインの肩から、ほんの一瞬だけ力が抜ける。

「……ふぅ……」


だが、次の瞬間。


培養槽の奥で、ナユタの瞳が星屑の揺らめきを瞬かせた。

冷光を反射するように瞳孔がふっと開く。

その微細な“揺らぎ”を、ゼウスの監視網が逃すはずもなかった。


警告音が爆ぜた。

赤いラインが壁一面を走り、まるで神経が怒りに染まるように光が暴れ出す。


「しまった」


レインの足元に、無数のホログラムコードが浮かび上がる。

ゼウスの声ではない──“眼”が、こちらを見た。見られた。


冷光に満ちた世界が、瞬く間に敵意へと変わる。

塔の神経が「異物」を認識した瞬間だった。


レインは震える息を飲み込み、ガラス越しの小さな命に囁く。

「……大丈夫、私が守る」


その言葉は、神への反逆の始まりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る