第3話 白い箱から、愛の城へ(3)

 この屋敷の食卓は、いつも歪だ。  広いダイニングテーブルの端っこに、お兄様とあたしが小さくなって並んで座り、一番離れた「上座」に、叔父様がふんぞり返っている。


 叔父様の前には、血の滴るようなレアステーキと、高そうな赤ワイン。  お兄様とあたしの前には、缶詰をあけただけのスープと、パサパサのパン。  まるで、王様と召使いだ。


「……う、美味いな。やはり肉は活力がつく」


 叔父様はナイフとフォークをカチャカチャと鳴らしながら、脂身を頬張っている。  その咀嚼が、あたしの耳には雷のように響く。


 クチャ、クチャ、ゴクリ。  食道を通って胃袋に落ちる肉の塊。  胃酸が分泌される音。  血管が収縮して、ドロドロした血が駆け巡り、血圧が上がる音。



 ――うるさい。汚い。  どうしてにんげんは、他の生き物の死骸をとりこむ時に、こんなに下品な音を立てるのだろう。  あたしなら、もっと静かに、綺麗に食べられるのに。



 あたしがスプーンを握りつぶしそうになっていると、お兄様がテーブルの下で、そっとあたしの手を握ってくれた。  『我慢だよ』という合図。  そうね。我慢しなきゃ。  この「脂ぎった肉の塊」は、今のところ、あたしたちの唯一のスポンサー様なのだから。



 お兄様の足の治療費。  この広いお城の維持費。  そして、あたしが入っていた「白い箱(病院)」の高い入院費。  お兄様は足が悪くて働けないし、パパとママが残した貯金なんて、とっくに底をついている。  だから、あたしたちはこの叔父様を飼っている。  正確には、あたしの「力」を使って、叔父様に金を稼がせてあげている。これは家賃の徴収だ。



「……世璃。食べ終わったら、書斎へ来なさい」


 ワインで顔を赤くした叔父様が、下卑た声で言った。  お兄様の手が、ピクリと震えた。


「叔父さん。世璃は帰ってきたばかりで疲れています。仕事の話なら明日に……」 「馬鹿言え! 相場は待ってくれないんだよ!」


 叔父様がバン、とテーブルを叩いた。  グラスのワインが跳ねて、白いテーブルクロスに血のようなシミを作る。


「明日の朝イチで重大発表がある銘柄なんだ。今夜中に方針を決めなきゃ、大損こくかもしれんのだぞ! お前たちの生活費を誰が稼いでやってると思ってるんだ!」


 唾を飛ばして喚く叔父様。  その目には、「金への執着」と、それ以上に「明日への不安」が渦巻いている。  この人はもう、自分の力では何も決められないのだ。  あたしの神託がないと、怖くて一歩も動けない。



 あたしは、お兄様の袖をくい、と引いた。


「いいよ、お兄様。あたし、少し運動したい気分だったから」


「……そうか。じゃあ、僕も一緒に行くよ」


 お兄様は杖をついて立ち上がる。  あたしはお兄様に寄り添いながら、叔父様をねめつけた。  早く行きましょうよ、エサ係さん。



 ***



 書斎は、熱気と電子機器の臭いで充満していた。  かつてパパが古書を読んでいた重厚な机の上には、今は何台ものモニターが並び、チカチカと無機質な数字を吐き出している。  プラスチックが焦げるような、人工的な臭い。  叔父様は震える手でタブレットを差し出した。


「これだ、世璃。見てくれ。この『帝都建設』……どう見えるかね?」


 画面には、複雑な折れ線グラフと、数字の羅列が表示されている。  人間たちはこれを「チャート」と呼んで一喜一憂するらしいけれど、あたしにはただの線にしか見えない。  あたしが見るのは、そこじゃない。  この会社の名前の向こう側にある、「運命の匂い」だ。


 あたしは鼻を近づけ、くんくん、と匂いを嗅いだ。  画面からは液晶の無機質な匂いしかしないけれど、意識を深く潜らせると、見えてくる。  その会社にまとわりついている、因果の色と臭いが。


「……臭い」


 あたしは鼻をつまんだ。


「泥の臭いがするわ、叔父様。冷たくて、重たい土砂の臭い。たくさんの人が埋まっているわ」


「な、なんだって?」


「それから、嘘の臭いもする。綺麗なコンクリートの下に、ゴミをいっぱい隠してる」



 あたしがそう告げると、叔父様の顔色がさっと変わった。  恐怖ではない。歓喜の色だ。


「そ、そうか! やはり噂通り、地盤沈下の隠蔽か何かがバレるんだな! ……ということは暴落だ! 『売り』だ、全力で空売りだ!」


 叔父様は狂ったようにキーボードを叩き始めた。  カタカタカタッ、ターン!  モニターの向こうで、莫大なお金が動く音がする。誰かの破滅を賭け金にして、叔父様の懐が膨らんでいく。


 ――下らない。  人間は、どうしてこうも「未来」を知りたがるのだろう。  どうせ全員、最後は肉の塊になって死ぬだけなのに。


 あたしが欠伸を噛み殺していると、興奮した叔父様が次の画面を表示した。


「次はこれだ! この製薬会社はどうだ! 新薬の認可が下りるという噂だが……」


 叔父様が、画面を見せようとして、勢い余ってあたしの肩を掴んだ。  脂ぎった太い指が、あたしのパジャマに食い込む。


 瞬間。  あたしの中で、何かが「プチン」と切れた。


『……ヴゥッ』


 喉の奥から、低い唸り声が漏れた。  

無礼だ。触るな。汚い。  その手は食べ物のくせに、あたしに触れるんじゃない。


 あたしの口が、ごうっ、と人間の骨格ではありえない大きさまで裂けそうになった。  



叔父様の指を、手首ごと食いちぎりたい衝動。  

目の前で、叔父様が「ひっ」と息を呑んで硬直する。


「……叔父さん」


 鋭い声が、部屋の空気を凍らせた。  部屋の隅に控えていたお兄様だ。  お兄様は、氷のような冷ややかな目で叔父様を見据えていた。


「その汚い手で、僕の妹に触るな」


 普段のお兄様からは想像もできない、ドスの利いた声。  叔父様は弾かれたように手を引っ込めた。  脂汗をダラダラと流しながら、椅子に座り込む。


「あ、ああ……す、すまん……つい、夢中になって……」


「世璃が疲れているのが分かりませんか。もう十分でしょう」


「わ、わかった。今日はこれくらいにしておこう。……もう行っていいぞ」



 お兄様は無言で頷くと、あたしの背中にそっと手を添えた。  その手は優しくて、荒れ狂うあたしの殺意を、波のように鎮めてくれる。


「行こう、世璃。お夜食に、温かいミルクを作ってあげるから」


「うん……ありがとう、お兄様」


 あたしは名残惜しそうに叔父様の太い首筋を一度だけ睨みつけてから、部屋を出た。



 廊下に出ると、お兄様が小さく溜息をついた。


「ごめんね、世璃。嫌な役をさせて」


「ううん。平気よ。叔父様、とっても美味しそうに太ってきたもの」


 あたしが無邪気に言うと、お兄様は困ったように、でも少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「……そうだね。まるまると太らせておこう。  今はまだ、あの人は『金の卵を産むガチョウ』だからね」



 お兄様の瞳の奥に、暗い光が揺らめいている。  ああ、やっぱり。  お兄様も待っているんだ。  あのガチョウが卵を産まなくなって、ただの肉の塊になる日を。

 その日が来たら、あたしが一番に狩ってあげる。  そして、一番美味しいところを、お兄様にあげるんだ。  だってあたしたちは、二人でひとつの共犯者なのだから。


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