第2話 白い箱から、愛の城へ(2)

 「世璃!」

 お兄様の声が、潮騒を切り裂いて届く。  その音色は、あたしの中にある「那美(ナミ)」の記憶回路を激しく震わせた。  喜び。安堵。そして、どうしようもない庇護欲。  この身体の全細胞が、一斉に歓喜の悲鳴をあげて沸騰する。



 あたしは荷物を捨てて、石畳を蹴った。  わざと少しだけ足をもつれさせて、よろめくフリをする。  か弱い妹。守ってあげたくなる妹。  そう演じることで、お兄様の「守らなきゃ」という呪縛を強めることができると、あたしの本能が計算しているからだ。



「お兄様っ……!」

「っと、危ない!」


 お兄様が杖を放りだし、倒れこむようにして両手を広げた。  あたしはその胸に、勢いよく飛びこんだ。  ドン、と鈍い衝撃。  二人して地面に転がりそうになりながら、お兄様は強く、強くあたしを抱きとめてくれた。


「お兄様、ただいま。……ずっと、会いたかった」


「お帰り、世璃。寂しかっただろう。怖かっただろう。  もう大丈夫だよ。これからはずっと一緒だ」


 お兄様の身体は、記憶にあるよりもずっと薄く、頼りなかった。  肋骨が指に触れるほど痩せている。心臓の音が、早鐘のように激しく、そして痛々しく響いている。  あたしは顔をお兄様の首筋に埋めて、深く息を吸いこんだ。


 ――ああ、いい匂い。  ずっと嗅いでいたい。  お兄様の匂いは、高級な石鹸と、古い書物の紙の匂い。  そして、その奥底に、ほんの少しの「絶望」が混じっている。


 甘くて、苦くて、鼻腔が痺れるようなスパイス。


 

 「……世璃?」  お兄様が、あたしの肩を掴んで少しだけ身体を離す。  彼の視線が、あたしの白いワンピースに、そして頬にこびりついた赤黒い汚れに注がれた。  お兄様の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。


「その、血は……。怪我をしたのか? どこか痛むのかい?」  震える指先が、あたしの頬の血をなぞる。  


 あたしは、とびきり可愛く首を傾げてみせた。 「ううん、あたしのじゃないの。……お腹が空きすぎて、我慢できなくて。門のところで、タクシーのおじさんを『食べちゃった』」



 お兄様の呼吸が止まった。  普通の人なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すか、警察を呼ぶだろう。  けれど、お兄様は違った。彼は真っ青な顔のまま、ただあたしをもう一度、壊れ物を扱うように抱きしめた。


「……そうか。……そうだったんだね。辛かったね、世璃」


お兄様だけが知っているのだ。

 

自分が抱きしめているこの柔らかい肉体が、妹の皮を被った「別のナニカ」だということを。  

それでも拒絶できずに、受け入れるしかない自分の弱さに、お兄様は絶望し、そして陶酔している。  その爛れた感情の匂いが、あたしを興奮させる。



「……お帰り。世璃」


 不意に、水を差すような濁声がした。


 お兄様の後ろ、玄関ポーチの陰から、男が現れた。  叔父様だ。  

パパの弟にあたる男。そして今、遺産目当てで後見人を名乗り、この屋敷の主のように振る舞っている男。


 あたしはお兄様の腕から離れ、ゆっくりと叔父様を見上げた。  脂ぎった肉の塊。  高そうなスーツを着ているけれど、その腹は醜く突きだし、ボタンが悲鳴をあげている。  叔父様は、あたしと目を合わせようとしない。  視線を地面に這わせたままで、手足が小刻みに震えている。  まるで、天敵である蛇に睨まれた、哀れな雨蛙だ。


 あたしは叔父様に一歩近づいた。  ムッとするような、すっぱい汗の臭気が鼻をつく。  それは「恐怖」のフェロモンだ。



 この男は知っている。  1年前のあの日、この身体の中で何が起きたのかを。  那美の身体が内側から裂けて、ドロドロの粘液と共に「あたし」が這いだしてくる瞬間を。  そして、あたしが両親の首をどんなふうに「掃除」したのかを、カーテンの隙間から見ていたのだから。


「叔父様、お久しぶりです。お留守番、ありがとうございました」


 あたしは精一杯の愛想で、ぺこりとお辞儀をした。  

 叔父様は血まみれのあたしと、庭先に放置された「無人のタクシー」を見て、顔を痙攣させた。


「な、なんだその血は! それにその車は……まさか、よ、世璃、お前がやったのか!?」


ガタガタと震える叔父様にお兄様が静に、強く言った。


「お願いします、叔父様。世璃は……僕の大切な妹なんです。どうか、あの車を森の奥へ。……あそこなら、誰も気づきません。叔父さんも世璃のおかげで潤っていますよね?その潤いが続くんですよ」


 沈黙が流れる。  叔父様は、あたしの血塗れの瞳と、お兄様の必死な形相を交互に見て、やがて忌々しそうに吐き捨てた。 「……クソが。どいつもこいつも、狂ってやがる」


カチン。


「叔父様。ごめんなさい」

あたしはちょこんと頭を下げた。

そして顔を上げた瞬間、ほんの少しだけ――喉の奥を鳴らして睨んだ。

『―― 分をわきまえろ』

 言葉にはしなかった。ただの空気の振動だ。  けれど、叔父様の本能には届いたらしい。


「ひぃッ!?」

 短い悲鳴を上げて、叔父様は無様に尻餅をついた。  顔面が蒼白になり、脂汗が滝のように噴きだす。


「どうしたんですか、叔父さん」  お兄様が、不思議そうに振り返る。  もちろん演技だ。お兄様は、叔父様があたしに怯えている理由なんて、痛いほど理解している。



「……い、いや。何でもない。久しぶりで、感極まってしまったようだ」


 叔父様は引きつった笑みを浮かべ、必死で立ち上がった。  膝が笑っている。 叔父様はガタガタと震える膝を隠すようにして、タクシーへと向かっていった。  四苦八苦して重い車体を押し、森の闇へと隠蔽していくその後ろ姿。  あたしとお兄様は、それを静かに見つめていた。



「世璃。お風呂に入ろう。……綺麗に洗ってあげるからね」  


 お兄様の手が、あたしの手を握る。  その手は、やっぱり少しだけ震えていたけれど。  あたしは、お兄様のそんな「弱さ」と「愛」が、たまらなく愛おしかった。


 全てを終えた叔父様は逃げるように、屋敷の中へと駆けこんでいった。  ドタドタと、みっともない足音が遠ざかっていく。  その後ろ姿を見送りながら、あたしは口の中に溜まった唾液を飲みこんだ。


 あの太い首。  血管の中を流れる、濃厚でドロドロしたスープ。  噛み千切ったら、きっと綺麗な音がして、温かい血飛沫があたしの顔を濡らすだろう。  想像するだけで、胃袋がきゅっと収縮する。



 ……でも、今はまだ駄目。  お兄様が「家族ごっこ」を望んでいるから。  お兄様が作ったこの優しい嘘の世界を、あたしが勝手に壊すわけにはいかない。  この男には、まだ使い道がある。  


 お兄様が「掃除していいよ」って許可をくれるその時まで、あたしは可愛い妹の皮を被って、いい子にしていてあげる。

「行こう、世璃。君の部屋は、あの時のままにしてあるよ」 「うん。ありがとう、お兄様」



 あたしはお兄様の手を取った。  冷たくて、温かい手。  この手を引いて、あたしたちは重厚な扉をくぐる。  死体と嘘で積み上げられた、あたしたちだけの城へ。  二度と出られない、楽園へ。


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