第4話 硝子の向こうの姉妹(1)

 西伊豆の崖を叩く雨は、都会のそれとは違う。  もっと暴力的で、重たい質量を持っている。  ババラ、ババラ、と屋根を打ち据える音は、まるで無数の小さな手でノックされているようだ。  その音が、あたしたちの城を外界から完全に切り離すカーテンになってくれるから、あたしは雨の日が好きだ。



 リビングの暖炉には火が入っていないけれど、お兄様の部屋はオイルヒーターの熱で満たされている。  湿った空気と、暖かい油の匂い。  お兄様はベッドに腰掛け、分厚い革表紙の本を読んでくれている。  あたしは、その足元のカーペットに寝転がり、お兄様の膝に頭を乗せていた。


「……こうして、王子は呪いを解くために、西の果てへと旅立ちました」


 お兄様の声は、チェロの音色に似ている。  胸の空洞に深く響いて、あたしの頭蓋骨を直接撫でてくれるような、甘い振動。  あたしは目を閉じて、その振動を味わう。  物語の内容なんてどうでもいい。王子がどうなろうと、姫が死のうと知ったことではない。  重要なのは、お兄様が今、「あたしのために時間を割いている」という事実だけだ。



 お兄様の細い指が、時折あたしの髪を梳く。  その体温。脈打つ指先の血管。  すべてがあたしのものだ。  この幸福な時間が永遠に続けばいいのに。


 ふと、お兄様の声が止まった。  ページをめくる音もしない。  ただ、お兄様の呼吸の音が、少しだけ乱れたのが聞こえた。


「……お兄様?」


 あたしは目を開けて、下からお兄様の顔を見上げた。  お兄様は、あたしを見ていなかった。  あたしの顔の輪郭をなぞるように見つめているけれど、その焦点は、ここではない「どこか」で結ばれている。  硝子玉のような瞳。  そこに映っているのは、今のあたしじゃない。


 匂いが、変わった。  さっきまでの清潔な石鹸の匂いが消えて、もっと湿っぽい、古い灰のような匂いが立ち昇る。  これは「追憶」の匂いだ。  お兄様の脳みその中で、海馬と呼ばれる記憶の貯蔵庫が、激しくスパークして、焦げついている匂いだ。


 ――何を見ているの?


 あたしは興味をそそられた。  そして同時に、胸の奥がチリチリと焼けるような不快感を覚えた。  お兄様がいま見ている景色の中に、あたしはいない。  お兄様は、あたしの身体越しに、別の誰かを見ている。



 ゆるさない。  お兄様の脳細胞のひとつひとつまで、全部あたしで満たしてあげなきゃ。


 あたしはお兄様の膝に頬を強く押し付けたまま、神経を集中させた。  お兄様の太腿の血管から伝わる、微弱な電気信号。  あたしのアンテナが、それを貪欲に受信する。



 ジジッ、ジジジ……。  ノイズの向こう側に、映像が浮かび上がった。  それは、色彩を持った記憶の断片。  お兄様がいま、脳内で再生している「愛しい過去」の映画だ。



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