第4話 封杭と首輪
裂け目が、息をするみたいに脈打った。
黒い縁が広がり、周囲の光を吸い込む。空気が重い。耳の奥で、低い圧の音が鳴り続ける。
封杭の刻印が、赤熱した鉄のように眩しく光った。
地面の円陣が悲鳴を上げている――俺の感覚では、そうとしか言いようがない。
「……押し返してるのか。これ」
俺の呟きに、犬飼誠が歯噛みした。
「そんな道具、協会に登録されてない。どこの製造品だ」
「異世界の神殿で使ってた。地球にはない」
言ってしまった。
隠したところで、さっき俺がボックスから取り出した瞬間を、犬飼は見ている。ここで嘘を積み上げたら、次の一手がなくなる。
犬飼は一瞬だけ言葉を失い、それから吐き捨てるように言った。
「……帰還者か。やっぱり」
玲奈の声が通信から割り込む。走りながら話しているのか、息が荒い。
『出口周辺の反応、増えてる! 封鎖班、結界が追いつかないって!』
裂け目の奥で、“腕”が伸びた。
甲殻の腕じゃない。骨と筋の形が、人間に近い。だが皮膚が黒く、ところどころに光る線が走っている。
その手が、地上の空気を掴むように握りしめる。
――こいつは、外へ出るつもりだ。
しかも、ただの魔物じゃない。知性を感じる。
俺は息を吸い、決断した。
ここで止めないと、街が壊れる。協会の封鎖網が間に合わないなら、俺が“蓋”になるしかない。
アイテムボックスへ意識を沈める。
暗い空間。整頓された棚。
その一角に、布で包んだ金属箱がある。神殿で“禁具”として封じられていたもの。使うには対価が要る。魔力だけじゃない、“縁”――対象と結びつく代償が。
俺は布を剥いだ。
手の中に現れたのは、掌サイズの円盤。白銀の金属に、幾何学の刻印。中心に小さな穴があり、そこへ杭を差し込む構造になっている。
玲奈の声が、遠くから実際に聞こえた。現場に戻ってきたのだ。
彼女は裂け目を見た瞬間、顔色を変えた。
「……何あれ。さっきの大型より“上”」
犬飼が短く答える。
「回収型の可能性。外の魔素を吸って出口を広げるタイプだ。放置するとさらに湧く」
玲奈は俺の手元の円盤を見て、即座に眉をひそめた。
「それ、何」
「封印具。出口を一時的に固定して塞ぐ」
「一時的って……どれくらい」
「分からない。相手の格と、場所の“圧”次第だ」
犬飼が怒鳴った。
「待て! 協会の封鎖手順が――」
「手順で間に合うなら、もう閉じてる!」
俺は声を荒げてしまった。
地球に戻ってきて、初めて本気で感情が漏れた。戻った先で、守るべきものが目の前で壊れそうになっている。
犬飼は言い返しかけ、しかし周囲の叫び声と裂け目の拡張を見て、口を閉じた。代わりに低く言う。
「……やるなら、一つ条件だ。俺の監督下でやれ。勝手に使って暴走したら、即拘束する」
首輪。
でも今は、首輪でも構わない。守るのが先だ。
「分かった。位置を取る」
俺は出口の正面へ踏み出した。
封杭の円陣は、出口の“縁”に一部重なっている。そこへ円盤を重ねる必要がある。
裂け目の中から、黒い腕がさらに伸びた。指が地面の砂利を掴み、握り潰す。石の砕ける音。
そして――腕の奥に、目が見えた。
赤い。
いや、赤ではなく“暗い光”。見つめられるだけで、背中の毛が逆立つ。
「来る……!」
犬飼が結界線を追加で撃ち込み、玲奈が封鎖班へ叫ぶ。
「全員、後退! この半径から出て! 倒れてる人を優先!」
俺は円盤を地面に置き、封杭の刻印に合わせて差し込んだ。
カチ、と乾いた音。
次に、祈りを流し込む。
聖魔法――最大。
「《シール・オブ・サンクチュアリ》」
白い光が円盤の刻印を走り、地面へ染み込む。
円陣が拡張し、裂け目の縁へ絡みつくように広がった。
裂け目が、初めて“抵抗”した。
黒い縁が蠢き、円陣を剥がそうとする。封印具が震え、俺の手首まで熱が伝わる。
――代償が来る。
異世界で使った時もそうだった。
封印具は、対象と俺の間に“つながり”を作る。つまり、相手の圧を俺が受ける。受け止めきれなければ、精神が削れる。
だが、俺には状態異常無効がある。
精神干渉も“状態異常”に近いはずだ――と信じるしかない。
裂け目の奥の目が、こちらを見たまま動かない。
そして、声がした。
『……カエリシモノ……』
耳で聞いたのではない。頭の内側に、直接“意味”が落ちてくる。
異世界語でも日本語でもないのに、理解できる。
『……ヌクモリ……モドリ……オマエ……』
玲奈が叫ぶ。
「いま、何か喋った!?」
犬飼も顔色を変えた。
「精神干渉だ、麒麟堂! 耐えられるか!」
俺は奥歯を噛み、祈りの流れを太くした。
「耐える!」
円陣の光が増す。
裂け目の縁が、少しだけ狭まった。
その瞬間――封印具が、俺の胸の奥を“掴んだ”。
痛みではない。
記憶を引きずり出す感覚。
十五の俺。
塾へ向かう夕方。スマホを握った手。友達の声。母の「晩ご飯どうする?」という問い。
――帰りたい。
――帰ったら、きっと全部元に戻る。
違った。
元に戻っていない。家は別人のものになっていた。家族の所在地は非公開。俺は未登録。世界はダンジョン化。
それでも、俺は帰ってきた。
『……オマエ……ツナガル……』
裂け目の奥の目が、笑った気がした。
回収型。外の魔素を“食う”。そして今――俺の“縁”を食おうとしている。
俺は恐怖を飲み込んだ。
縁を食わせるくらいなら、縁をこちらから“固定”してやる。
「……お前は、ここから出るな」
俺は小さく言い、祈りを“釘”の形に変えた。
聖魔法だけじゃない。無属性で形を作る。
「《フォース・リベット》」
無属性の力で、封印の光を“リベット”のように打ち込む。
円陣が裂け目の縁へ固定され、黒い縁の動きが止まる。
裂け目が、ぎゅっと縮んだ。
腕が引っ込む。指が空を掴み、空振りする。
赤い目が、最後にこちらを睨み――消えた。
裂け目は完全には閉じない。
だが“蓋”ができた。これ以上、すぐには開かない。
地上侵入の波は、止まった。
俺は大きく息を吐いた。
膝が震える。魔力はあるのに、精神が重い。封印具の代償が、確実に俺の中へ残った。
玲奈が駆け寄ってきて、俺の肩を掴む。
「大丈夫!? 顔色が――」
「平気……。死にはしない」
犬飼も近づき、封印具と裂け目を交互に見た。
そして、目の色を変えたまま言う。
「……今のは、協会でも前例が少ない。出口を“固定”した。しかも、道具で」
「道具は異世界のものだ」
「それが問題だ」
犬飼は低い声で続ける。
「お前は今、地上侵入を止めた。英雄みたいに見えるだろう。だが、組織から見れば――未登録で、未知の装備を無制限に出せる、測定不能の高位魔力者だ」
玲奈が唇を噛む。
「つまり、危険物扱い」
「その通り」
犬飼は一歩踏み込み、俺の仮登録証を指で弾いた。
「仮登録のままだと、次からは自由に動けない。今日の映像も拡散する。協会は必ず説明を求められる。お前も求められる」
俺は理解していた。
ここで協会と決裂すれば、家族の照会は止まる。拘束される可能性が上がる。
だが、協会に従いすぎれば、俺は“道具”になる。
俺は犬飼を見た。
「……条件を出す。俺は協会に協力する。だが、俺の目的――家族の所在の照会を進めろ。隠すなら、協力の意味がない」
犬飼は俺をしばらく見つめた。
その視線には、現場の責任者としての冷たさと、人間としての迷いが混じっている。
「交渉か。いい度胸だな」
玲奈が静かに言った。
「犬飼班長。彼の協力は必要。さっきの封印がなかったら、被害は出てた」
「分かってる」
犬飼は眉間を揉み、短く決断した。
「よし。麒麟堂、ここから先は“仮”じゃない手続きに入る。正式登録の審査だ。最初にやるのは――」
犬飼は周囲を見回し、封鎖班に指示を飛ばす。
「この出口は封杭で固定された。上層部に即報告。警備を厚くしろ。封印具の回収は――」
俺を見て、言葉を切った。
「……お前が外したら、また開くか?」
「分からない。外せば反動がある。下手に触ると、逆に広がる」
「なら、当面そのまま。封印具は保全対象だ。勝手に回収しようとするやつがいたら止める」
玲奈が驚いた顔をした。犬飼が俺の道具を“保全対象”と言ったことに。
犬飼は俺に向き直り、声を落とす。
「次にやるのは、持ち物の棚卸しだ。アイテムボックスの中身。危険物の確認。……そして、何より」
彼は、タブレットを見せた。
画面には先ほどの家族情報の照会が表示されている。権限不足の赤い文字。
「お前の家族の所在地。俺の権限でも“非公開”だ。上の許可が要る。だが今日の件で、上はお前を放置できなくなった」
玲奈が続ける。
「つまり、交渉材料が増えた。あなたの“力”と引き換えに、家族への道が開く可能性がある」
俺は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
希望だ。危険な希望。だが、希望は希望だ。
そのとき、封鎖線の向こうで、救急隊員が担架を運んでいるのが見えた。さっきの黒い霧を吸った人だろう。咳き込みながらも、生きている。
守れた。
少なくとも、いまこの瞬間は。
犬飼が俺へ言った。
「麒麟堂敦志。協会本部に来い。今日の現場記録と、封印具と、アイテムボックス――全部、上が欲しがる」
「分かってる」
「ただし」
犬飼は一拍置いて、現場の責任者ではなく、一人の男として言った。
「俺は、お前を実験材料にしたくない。だが、それは“俺一人の意思”だ。上は違うかもしれない」
玲奈が小さく頷いた。
「だからこそ、こちらもカードを揃える。あなたが暴れないこと、協会の管理下で動けることを示す。そうすれば、話は通る」
俺は目を閉じ、封印具の熱をまだ手に感じながら、決めた。
「俺は暴れない。目的は家族だ。……でも、守るべきものが目の前で壊れるなら、俺は止める」
犬飼が苦く笑った。
「それが一番、厄介で一番、信用できる。行くぞ」
俺たちは封鎖線の内側を抜け、協会車両へ戻った。
背後で、封杭の円陣が淡く光り続けている。街の真ん中に刺さった、白い楔。
帰ってきた地球で、俺は“蓋”になった。
そしてその蓋は、ただの道具じゃない。
裂け目の奥の赤い目が、最後に残した言葉が、まだ頭の奥で反響している。
『……ツナガル……』
つながり。縁。
それは家族への道か。
それとも――地球そのものが、俺を引きずり込む糸なのか。
車のドアが閉まり、エンジンがかかった。
犬飼がタブレットに、次の指示を表示する。
《協会本部:緊急聴取》
《案件:未登録高位帰還者/封印具使用》
《付随:アイテムボックス内の危険物確認》
俺は仮登録証を握りしめた。
首輪は、さらにきつくなる。
それでも――一歩進めば、家族に近づける。
車窓の外で、夕方の光がビルの影を伸ばす。
十五の俺が消えたあの夕方と、似た色だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます