第3話 仮登録とアイテムボックス

 警報音は、施設の白い廊下を鋭く切り裂いた。

 短く、一定の間隔で鳴る――現場出動の合図だ。


「第二出口で反応。規模がでかい」


 犬飼誠が言い捨てるように歩き出す。葛城玲奈が俺の横をすり抜け、廊下の角を曲がる直前に振り返った。


「ついて来て。走る。転ばないで」


 言い方は冷たいが、声音に迷いがない。訓練の積み重ねが、彼女の言葉を“命令”に変えている。


 俺は杖を握り直し、息を整えた。

 帰還して数時間――いや、体感ではまだ“地球の空気”を肺に入れたばかりなのに、もう次の戦闘だ。


 通路の先、ガラス越しに見える待機室では、協会員が装備を整えていた。防刃ベスト、ヘルメット、魔導具らしき銃器、ドローンケース。異世界の戦支度とは違うが、方向性は同じだ。戦うための集団。


「麒麟堂」


 犬飼が足を止め、ポケットから薄いカードを投げてよこした。

 受け取ると、指先に微かな熱。カードの表面に魔力が流れている。


《探索者協会 仮登録証》

《氏名:麒麟堂 敦志(照会中)》

《区分:保護・協力対象》

《同行制限:犬飼班の監督下》

《権限:現場立入(限定)》


「仮の身分だ。これがないと現場に入れない。失くすな。あと――」


 犬飼は俺の腰の剣に視線を落とし、さらに俺の外套の内側――隠しているつもりのアイテムボックスの気配へ、わずかに目を細めた。


「持ち物の申告は、後で必ずさせる。今は命が先だ」


 玲奈が片耳に小型の通信機器を押し当て、返事をする。


「了解。封鎖班、先行してる。現場は駅前から南、第二出口周辺。地上侵入、複数反応……え、複数?」


 最後の一言で、彼女の瞳が少しだけ揺れた。


 俺の心臓も同じように跳ねる。

 複数。つまり、さっきのより状況が悪い。


「行くぞ」


 犬飼が合図し、俺たちは施設の裏口へ抜けた。白いバンのスライドドアが開き、車内に冷たい空気が流れ込む。運転席には別の協会員、後部座席には封鎖用の機材がぎっしり積まれている。


 エンジンが唸り、車が動き出した。


 窓の外を街灯が流れる。

 “ゲート前地区”の標識。探索者用品店の明るい看板。ポーション買取の文字。

 世界が変わったのだと、視界が何度も教えてくる。


 犬飼がタブレットを俺へ向けた。地図上に赤い点が点滅し、侵入口の位置が示されている。


「第二出口は、地上側の臨時排出口だ。普段は結界で絞ってる。だが今日は“圧”が高い。溢れたら、地上侵入が増える」


「圧……ダンジョン内部の魔力の流れか?」


 俺が訊くと、玲奈が短く頷いた。


「似たようなもの。協会は“魔素濃度”って呼んでる。一定値を超えると、出口が不安定になる」


 犬飼が続ける。


「で、現場では“封鎖班”が外側の民間人を下げる。“討伐班”が中の侵入個体を潰す。お前は――」


 視線が俺に刺さる。


「証拠が欲しい。お前が何者か、どこまでが本当か。そのために戦ってもらう。だが、無茶はさせない。俺の指示に従え」


 玲奈が付け足す。


「勝手に飛び込んだら拘束する。あなたが強いのは分かった。でも現場は“強さ”だけじゃ回らない」


 その言葉は正しい。異世界でもそうだった。個の力が強いだけでは、守れない場面がある。


「分かった。指示に従う」


 俺はそう答えたが、心の奥では別の計算が回っていた。

 協会の枠に入らなければ家族に近づけない。

 だが、枠に入れば自由は削られる。


 その天秤の上に、もう一つの重りがある。


――アイテムボックス。


 異世界の戦利品、魔王城の宝物庫、古代遺跡の素材。

 聖者として集めた“生存のための道具”が、俺の中に眠っている。

 地球側から見れば、危険物の塊に等しい。


 それでも、いざという時には出すしかない。


 車が急ブレーキで止まり、ドアが開いた。

 外に出た瞬間、湿った空気に混じって、魔物の臭いが鼻を刺す。


 第二出口周辺は、すでに封鎖されていた。コーンとテープ、協会員の腕章、警察車両。空には小型ドローンが数機、警戒灯を点滅させて旋回している。


 遠くで、人が叫ぶ。

 泣く声。

 そして――地面を叩く重い音。


「来るぞ!」


 犬飼が叫び、俺たちは建物の陰へ滑り込んだ。

 通りの先、出口付近の空気が歪み、黒い裂け目が開く。そこから――


 最初に出てきたのは、二体の獣。さっきの個体より小さいが、脚が太く、首に骨の鎧のようなものを巻いている。

 続けて、裂け目が大きく脈打ち、さらに一体――人型の巨体が姿を現した。


 身長は二メートル半はある。全身が黒い甲殻で覆われ、肩から背中にかけて棘。右腕は異様に太く、拳の先が岩のように硬い。


 玲奈が息を呑む。


「……重装個体。B級相当、いや――」


 犬飼が歯噛みする。


「封鎖班、下げろ! 討伐班、対大型!」


 協会員たちが一斉に動いた。

 だが、問題が一つ。


 獣二体が先に走り出し、路地へ散っていく。

 大型は中央で吠え、地面を叩いて衝撃波を飛ばす。アスファルトがひび割れ、封鎖用のコーンが跳ねた。


「分散――最悪だ」


 犬飼が呻く。


 玲奈が即座に指示を出した。


「犬飼班、追撃一体! 別班がもう一体! 大型は討伐班に――」


 犬飼が首を横に振る。


「討伐班が間に合わん。大型が地上へ出切ったら被害が出る。……麒麟堂、いけるか」


 いけるか、じゃない。

 やるしかない。


「大型は俺が止める。獣は――」


 俺が言いかけた瞬間、獣の一体が民家の庭へ飛び込み、犬のような速さで塀を越えた。逃げた先に、人の気配がある。避難が間に合っていない家だ。


 玲奈が歯を食いしばった。


「……私が追う」


「一人で?」


「二人だと大型が抜ける」


 そう言って、玲奈は走り出す。迷いがない。

 犬飼が俺の肩を叩いた。


「俺が援護する。大型を止めろ!」


 俺は頷き、通りへ踏み出した。

 大型の足音が、地面を揺らす。近くで見ると、さらに大きい。甲殻の隙間から黒い霧が漏れている。魔素濃度が高い。


 俺は杖を構え、まず守る。


「《ホーリーシールド》」


 白い膜が広がり、封鎖線の内側を半円状に覆った。

 大型の拳がシールドへ叩きつけられ、鈍い音が響く。膜がたわみ、ひび割れのような光の筋が走る。


「強い……!」


 さっきの個体とは桁が違う。

 犬飼が後方から魔導具を撃ち、光の杭を地面へ打ち込んだ。杭と杭の間に線が走り、簡易の拘束結界が形成される。


「拘束線、三秒しか保たん!」


「十分だ」


 俺は一歩踏み込み、祈りを切る。


「《ホーリーバインド》!」


 光の帯が大型の脚へ絡む。

 大型は吠え、腕を振り回す。甲殻の棘が光を削り、摩擦音が耳を刺す。


 押し負ける。

 純粋な魔力では勝てても、地球での“地上侵入”は条件が悪い。周囲に人がいる。建物がある。破壊が許されない。


 だから、道具が要る。


 俺は意識をアイテムボックスへ向けた。

 数え切れないほどの“異世界の持ち物”が、暗い空間に整然と積まれている。薬草、魔石、聖銀、結界符、魔導具、保存食、そして――魔王城で回収した封印具。


 手を伸ばし、掴む。


 次の瞬間、俺の手の中に小さな金属杭が現れた。銀に近い白金色、表面に細かな刻印。異世界の神殿で使われていた“聖銀の封杭”。


 犬飼の目が一瞬だけ見開かれる。


「出した……今の、どこから――」


「後で説明する!」


 俺は叫び、杭を地面へ打ち込んだ。

 ただの杭じゃない。刻印が光り、地面の下へ白い線が走る。小さな円陣が形成され、結界が立ち上がる。


「《セイクリッド・フィールド》」


 俺自身の聖魔法に、封杭の“場の固定”を重ねる。

 すると大型の動きが鈍った。甲殻の隙間から漏れる黒い霧が、薄まる。


「効いてる……!」


 犬飼がすぐに追加の拘束線を撃ち、結界の外周へ固定した。


「いいぞ! そのまま弱らせろ!」


 俺は頷き、仕上げへ移る。

 ただ倒すだけでは駄目だ。地球の魔物が“残骸”として残るなら、二次災害になる。さっきの個体は塵になったが、これはどうだ。


「浄化で削る」


 俺は杖を突き出し、短く言った。


「《セイクリッド・ピアス》!」


 白い針が大型の額へ刺さる。

 だが――甲殻が弾いた。針が折れ、光が散る。


 犬飼が呻く。


「装甲が硬い! 核(コア)まで届かん!」


 核。

 ダンジョンモンスターには、魔力の核がある。異世界でも同じだった。だが、この個体の核は深い。


 なら、貫通手段を用意するしかない。


 俺は再びボックスへ意識を伸ばし、別の道具を取り出した。

 黒い柄の短槍――先端だけが透明に近い結晶でできている。古代遺跡で拾った“無属性貫通槍”。魔力障壁を裂くための武器。


 犬飼が歯を見せるように笑った。緊張が極限にある時、こういう顔をする人間がいる。


「……それも、後で詳しく聞く。今は刺せ!」


 俺は頷き、走った。

 シールドの内側で、封杭の結界が大型を縫い止めている。完全ではないが、今なら踏み込める。


 大型が拳を振り上げる。

 俺はその下へ潜り込むように滑り、短槍を突き上げた。


 結晶の穂先が甲殻を裂く感触。

 硬い。だが、貫く。

 槍が骨のような層を抜け、奥に柔らかい“何か”に触れた。


「核、捉えた!」


 俺は槍を固定し、聖魔法を流し込む。


「《パージ》!」


 浄化が、内側から爆ぜた。

 大型の身体が一瞬硬直し、次いで甲殻の隙間から白い光が漏れ出す。黒い霧が消えていき、棘が崩れ、巨体が膝をついた。


 最後は、音もなく崩れた。

 黒い塵が風に舞い、残ったのは――槍の穂先に付着した、灰色の小さな結晶片だけ。


 犬飼が息を吐いた。


「……討伐完了」


 しかし、終わりではない。

 玲奈が追った獣の一体。もう一体は別班が追撃中。

 それに――裂け目はまだ閉じていない。出口付近の空気が、嫌な脈動を続けている。


 俺は封杭を抜こうとして、手を止めた。

 足元の円陣が、まだ強く光っている。

 まるで“何かが出ようとしている”のを押し返しているみたいだ。


「犬飼、待て。出口が――」


 言い終わる前に、裂け目が大きく震えた。

 地面が鳴る。空気が冷える。

 封杭の刻印が、熱く燃えるように光った。


 犬飼が即座に通信へ怒鳴る。


「封鎖班! 出口、再上昇! 全員退避――いや、違う、これは……」


 裂け目の奥で、影が動いた。

 大型よりさらに重い圧。

 こちら側へ“腕”のようなものが伸び、空気を掴む。


 俺は反射でシールドを二重に展開した。


「《ホーリーシールド》――重ねる!」


 白い膜が厚くなる。

 だが、その瞬間、出口周辺の地面に落ちていた小さな塵が、逆流するように裂け目へ吸い込まれた。まるで“餌”を回収しているかのように。


 嫌な予感が、背筋を刺す。


 犬飼が低く言った。


「……“回収型”。聞いたことがある。地上侵入を囮にして、外の魔素を食うタイプだ」


 玲奈の声が通信に割り込んだ。息が荒い。


『一体、討伐! もう一体は見失――待って、出口が……何これ、反応が一つじゃない!』


 裂け目の奥で、複数の光点が瞬いた。

 出る。出てくる。


 俺は、アイテムボックスの中で“最後の手段”に指をかけた。

 異世界の神殿で、禁じられていた封印具。

 使えば、協会に全部バレる。場合によっては、ここで拘束される。


 それでも――ここで街を守れなければ、家族へ辿り着く道も消える。


 俺は犬飼を見た。


「出口を閉じる方法は?」


 犬飼は一拍だけ迷い、言った。


「あるが、時間がかかる。封鎖班の結界を重ねて、安定化させて――」


「間に合わない」


 俺は結論を口にし、息を吸った。


「俺が一度、止める」


 犬飼の目が細くなる。


「……何を出す気だ、麒麟堂」


 俺は答えず、ただ杖を握り直した。

 裂け目の向こうの圧が、こちら側の空気を押し潰し始める。


 封杭の刻印が悲鳴を上げるように輝いた。


 次に来るのは、さっきまでの“討伐”じゃない。

 “封じる”戦いだ。


 俺は、アイテムボックスへ意識を沈めた。

 暗い空間の奥、封印具の冷たい感触が指先に触れる。


 そして――裂け目が、さらに開いた。

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