第2話 協会と身分
魔物が鎖を砕いた瞬間、空気が裂けるような音がした。
角の生えた獣――いや、あれは“地上に出てきてはいけないもの”だ。口から垂れる粘液がアスファルトに落ち、白い煙を上げる。酸性か。
俺は杖を掲げたまま、足だけを半歩引いた。避けるためじゃない。角度を作るためだ。
「《ホーリーランス》」
白い槍が、無音で空間に生まれる。祈りというより、もう反射に近い。五年、何千回と繰り返した“守るための一撃”。
槍は魔物の肩口を貫いた。衝撃は遅れて音になり、肉が焼ける匂いが立ち上る。魔物は地面に着地できず、転がりながら爪で地を掻いた。だが、それでも止まらない。こちらへ向かってくる。
地球の魔物は、異世界のより鈍い――そう思ったのは、完全に油断だった。
魔物が口を開き、黒い霧を吐いた。霧は風に乗って広がり、逃げ遅れた人の足元に絡みつく。
「う、わっ……!」
悲鳴。咳き込み。膝を折る音。
状態異常――麻痺か毒か。だが俺には効かない。効かないからこそ、見落とす。
「下がれ!」
俺が叫んだ瞬間、背後の協会員の男が短く指示を飛ばした。
「玲奈、避難誘導! 俺は拘束弾!」
男は腰のホルスターから、銃に似た器具を抜いた。現代の形をしているのに、銃口から覗くのは弾丸ではなく、淡い光の筒。魔力で動く武装――“魔導具”の類だ。
女性――玲奈と呼ばれた協会員は、迷いなく人の流れを切り替える。腕章を掲げ、叫ぶ声は通る。
「こちらへ! 駅構内に入って! 転んだ人を優先、走らない!」
訓練された声だった。混乱に、必要なだけの圧が混じっている。
俺は霧に絡まった人へ手を伸ばし、無属性で風を起こした。
「《エアカッター》」
目に見えない刃が、霧の束を断ち切る。霧は散り、絡まれていた人が倒れ込む。
「吸うな! 口を覆え!」
俺が叫ぶと同時に、協会員の男――犬飼と名乗る前のその男が、魔物の脚へ光の糸を撃ち込んだ。光の糸は脚に巻きつき、地面へ杭のように固定される。
「今だ、――ええと、君!」
名前を知らないまま、彼は俺に“やれ”と目で言った。
やるしかない。逃げれば、被害が出る。俺の存在がどう扱われようと、いまは関係ない。
「《ホーリーシールド》」
白い膜が、半円状に広がった。逃げ切れない人と、魔物の間に壁を置く。次に、杖を振り下ろす。
「《ホーリーバインド》」
今度は鎖ではなく、帯のような光で全身を縛る。魔物が暴れ、爪が光を裂こうとする。足元の杭が軋み、犬飼の表情が歪む。
「こいつ、地上適応してる……!」
適応。つまり、ダンジョンの魔物は、地上に出ても弱らない個体がいる。それが“事故”の正体なのか。
俺は息を吸い、祈りの言葉を短く切った。
「《セイクリッド・ピアス》」
白い針が、魔物の額に打ち込まれた。光は内側で爆ぜる。浄化。外側を破壊するのではなく、“存在そのもの”を薄めていく。
魔物の唸りが、音程を失っていく。最後は、砂を握り潰すような音だけが残り、身体が崩れて黒い塵になった。
静寂が落ちた。
数秒遅れて、駅前の喧騒が戻る。遠くでサイレン。誰かが泣き、誰かがスマホを掲げ、誰かが「いまの何だ」と叫んでいる。
俺は杖を下ろし、肩で息をした。魔力はまだ残っている。残っているのに、呼吸だけが荒い。これは戦いの疲れじゃない。“地球で戦った”ことの重さだ。
犬飼が、銃のような器具を下ろしながら近づく。警戒は解いていない。距離は三歩。踏み込みやすい間合いだ。
「助かった。……だが、話は別だ」
彼は身分証を再び掲げた。探索者協会・現場対応班。顔写真と名前。
「犬飼 誠(いぬかい まこと)。君の身元を確認する。さっきの魔法、登録系統と一致しない。協会の枠外だ」
玲奈も戻ってきた。避難誘導を終えたのか、息は乱れていない。視線だけが鋭い。
「葛城 玲奈(かつらぎ れいな)。あなた、いまカメラに映ってる。ここで逃げたら、指名手配もあり得る」
俺は周囲を見た。確かに、スマホを向ける人間が何人もいる。撮られている。拡散される。協会がどう取り繕っても、いずれネットに載る。
逃げる選択肢は、現実的じゃない。
「……麒麟堂敦志。二十歳」
俺は名前だけを先に出した。年齢は地球基準で合っている。十五で消えて、二十で戻ってきた。地球でも五年が経っているなら辻褄は合う。
犬飼の眉がわずかに動く。
「住所は」
「ない。というより……今、確認したが、家がない」
「家がない、じゃない。住民票」
「ない」
玲奈が短く息を吐いた。
「つまり、浮浪者か、偽名か、密入国か、……もしくは“未登録の帰還者”」
帰還者。地球にも、異世界帰りがいる前提で話が進んでいる。
俺は一瞬だけ言葉を選んだ。隠しすぎれば拘束され、話しすぎれば実験台になる。そんな直感が背筋に刺さる。
「……俺は、五年前に行方不明になった。今日、戻ってきた。信じろとは言わない」
犬飼は黙っていたが、玲奈は目を細めた。
「五年前の行方不明。……ダンジョン発生より前ね」
「発生は三年前だって聞いた」
「そう。じゃあ、あなたの失踪は別件。なのに、魔法が使える。しかも高位」
彼女の視線が、俺の杖と剣へ落ちる。
「その装備も、協会規格じゃない」
犬飼が指を一本立てる。
「提案だ。今は混乱している。ここで事情聴取を続けるのは危険だ。協会の安全区画へ移動する。そこで登録照会、身元照会、医療チェック。拒否するなら――」
「拘束する?」
俺が言うと、犬飼は否定しなかった。
「協会には、地上侵入の対応権限がある。君は今、現場で戦力としては助かったが、身元不明の高位魔法使いだ。放置できない」
正論だ。俺の立場は最悪に近い。
ただ、俺にも条件がある。
「一つだけ。俺は家族を探したい。行方不明扱いなら、記録があるはずだ」
玲奈が一拍置き、頷いた。
「協会の照会網は、警察と連携してる。あなたが本当に麒麟堂敦志なら、いずれ出てくる」
犬飼が付け足す。
「ただし、その前に“登録”だ。未登録の魔力保持者は、法律上グレーではなく黒に近い。協会の庇護下に入れば、動きやすくなる」
庇護。
言い換えれば、首輪だ。
俺は目を閉じ、息を整えた。異世界では、王に頭を下げることも、神官長に礼を尽くすことも、必要ならやった。目的のためなら、プライドは道具に過ぎない。
「分かった。行く」
そう言うと、犬飼の肩から力が抜けた。玲奈は相変わらず警戒を残したまま、俺の左右を取る位置に立つ。逃げ道を塞ぐ配置。慣れている。
俺たちは、人のいない裏通りへ回った。協会の車両――白いバンが停まっている。側面には小さく協会のロゴと、識別番号。
乗り込む直前、俺は駅前の空を見た。黒い穴――ダンジョンの出口付近に、追加の協会員が集まり始めている。地上侵入は“珍しい事故”ではないのかもしれない。
車内は無機質だった。簡易の医療キット、拘束ベルト、タブレット端末。戦う組織の匂い。
犬飼が端末を操作しながら言う。
「まず、本人照会。名前と生年月日」
「……生年月日は、二〇〇五年……」
言いかけて、止まった。俺の生年月日は地球の戸籍でどうなっている? 十五で消えた少年として、当時の年齢から逆算すれば言える。でも、ここで間違えたら一発で嘘扱いだ。
俺は正直に言うことにした。
「正確な日付は、今すぐ出てこない。確認できる手段がない」
犬飼は溜息をついたが、端末を閉じなかった。
「じゃあ、失踪時の情報。学校、地域、家族構成」
そこは言える。俺は地球での記憶を絞り出し、話した。中学の名前、最寄り駅、父と母。顔。声。最後に見た夕方の光。
玲奈は静かに聞いていたが、途中で一度だけ、鋭く質問を挟んだ。
「失踪時、あなたの周辺で“発光現象”は?」
俺は一瞬黙り、最小限だけ答えた。
「……光があった」
犬飼が端末を叩く。
「やはりな。帰還者案件のパターンに近い。……ただ、五年前はまだ制度が整っていない。記録が散ってる」
協会の車は走り出した。窓の外の景色が流れる。見覚えのある街が、どこか別物に見える。看板には「探索者用品店」「回復薬(ポーション)買取」。異世界の単語が、当たり前のように日本語に溶けている。
協会の施設は、駅から少し離れた場所にあった。旧体育館を改装したような建物。入口には金属探知機と、結界のような淡い膜。
受付の奥へ通され、俺は小さな面談室に座らされた。机の上に水。向かいに犬飼と玲奈。壁際に、医療スタッフらしき女性が一人。
犬飼が言う。
「まず、魔力の測定と、技能の自己申告。拒否すれば拘束。協力すれば、仮登録で外出許可も出せる」
「測定なら構わない」
異世界のステータスは俺の中にある。地球の測定器が何を拾うかは分からないが、隠しても無駄だ。
医療スタッフが腕にバンドを巻く。冷たい。次に、透明な板のような端末を俺の前に置いた。画面に数値が走り、赤い警告が点滅する。
スタッフの顔色が変わった。
「……犬飼班長、測定上限を振り切ってます。三回測り直しても同じ」
犬飼が目を細め、玲奈が口元を引き締めた。
「上限超えは、A級でも稀だぞ」
「A級?」
俺が問うと、犬飼は答える代わりに、端末を俺へ向けた。そこには、階級表が出ている。
探索者は、魔力と実績でランク分けされる。Eから始まり、D、C、B、A、そしてS。
地上侵入に対応できるのは、原則B以上。
「君の数値は、Aの上限を超えて“測定不能”。つまり、S級相当の可能性がある」
玲奈が淡々と告げる。
「だけど、ランクは“強さ”だけじゃない。協会の規範に従えるか、社会に適応できるかも含まれる。あなたは今、身分がない。最悪、隔離対象」
隔離。
言葉が喉の奥で冷たくなった。
犬飼が机に肘をつき、真っ直ぐ俺を見る。
「麒麟堂敦志。君は、協会の庇護下に入る意思があるか」
俺は答える前に、条件をもう一度口にした。
「家族の所在を確認できるなら。行方不明の記録にアクセスさせてくれ」
犬飼は頷き、端末を操作した。画面に検索窓。
キリンドウ、アツシ。候補がいくつか出る。読み違い、同姓。別人。
その中で――一つだけ、赤い表示があった。
《麒麟堂 敦志 失踪 20XX年○月○日》
《年齢:15》
《扱い:行方不明(未解決)》
《備考:発光現象の目撃情報あり》
俺は息を止めた。
本当に、俺の名前がある。俺は確かに“消えた”ことになっていた。
犬飼が言う。
「照会は通った。ただし、これで“本人確定”にはならない。生体情報が必要だ。DNA、指紋、顔認証。可能なら家族の協力も要る」
「家族は、どこに?」
玲奈が画面を覗き込み、静かに読み上げた。
「当時の住所は……すでに区画整理済み。移転先――」
彼女が言葉を切ったのは、画面に出た次の項目を見たからだ。
《家族情報:保護対象(ゲート前地区災害時)》
《現在地:非公開(協会権限要)》
《備考:二次避難先へ移送》
二次避難。
災害。
ダンジョンが街を飲み込んだ時期に、家族は巻き込まれた可能性がある。
視界が狭くなる。五年分の空白が、現実の重さでのしかかってくる。
犬飼が、低い声で言った。
「君が協会の登録者になれば、照会権限が上がる。家族の所在にも近づける。逆に言えば、登録しないならここで止まる」
俺は拳を握り、ゆっくり開いた。
異世界で“守る”と決めたことを、地球でも続けろと言われている気がした。だがそれは、協会の都合でもある。
選択肢は二つに見えて、実際は一つだ。
「……仮登録でいい。手続きを進めてくれ」
玲奈が微かに息を吐いた。
「理解が早いのは助かる」
犬飼は端末をこちらへ押し出す。
「じゃあ、自己申告だ。技能――魔法の系統、特殊能力、所持品。隠して後で発覚したら、即拘束。正直に言え」
俺は、どこまで言うべきかを考えた。
全部言えば、監視は強くなる。隠せば、信頼が消える。そして、家族へ辿り着く道が閉じる。
だから、必要な分だけ、正確に。
「聖魔法。無属性魔法。……鑑定。状態異常無効」
犬飼が眉を上げる。
「鑑定持ちは貴重だな。状態異常無効は――」
「常時」
玲奈が、反射的に言った。
「それ、あり得ない……」
俺は最後に、もう一つだけ付け足した。
「アイテムボックスもある。容量は……最大」
沈黙が落ちた。
犬飼が、ゆっくりと椅子にもたれかかった。玲奈は警戒を強め、医療スタッフは固まったまま動かない。
犬飼は、ようやく一言だけ絞り出した。
「……君、本当にどこで何をしてきた」
俺は答えなかった。答えれば、次の質問が千になる。
代わりに、確かめたいことを言った。
「俺は協会の戦力として使われてもいい。だが、俺の目的は一つだ。家族に会う。そのために必要なら、ダンジョンにも入る」
犬飼は端末を閉じ、短く頷いた。
「いいだろう。仮登録、発行する。代わりに条件がある」
「条件?」
「次の地上侵入の現場に、同行してもらう。君の能力を“協会の目”で確認する必要がある。世間に流れた映像も、放置できない」
玲奈が続けた。
「あなたはもう、目立った。隠れて生きるのは無理。なら、協会の看板の下で動くしかない」
俺は、静かに息を吐いた。
帰ってきた地球は、ダンジョンのある世界だった。
そして俺は、行方不明者のまま、協会の最前線へ立つことになる。
犬飼が立ち上がり、扉へ向かう。
「準備しろ。今日の件、まだ終わってない。侵入口は一つじゃない可能性がある」
玲奈が俺を見下ろし、言った。
「麒麟堂敦志。あなたが味方かどうかは、これから決まる。――そして、あなたの家族の所在地も」
扉が開き、廊下の白い光が差し込む。
その光が、異世界の召喚光と一瞬だけ重なって見えた。
俺は椅子から立ち上がり、杖を握り直す。
次に守るのは、この世界だ。
そして、俺が失った五年の先にいる家族だ。
廊下の先で、警報が鳴った。短く、鋭い音。
犬飼が振り返り、言った。
「……来たぞ。第二出口で反応。今度は、もっと大きい」
俺は頷いた。
「なら、急ごう」
地球での“第一歩”は、もう始まってしまった。
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