聖者帰還ー行方不明の少年、地球に帰還するー

あちゅ和尚

第1話 帰還者(リターン)の空白

 白い光が、世界の端から端までを塗りつぶした。


 最後に見えたのは、崩れ落ちる黒曜の玉座と、灰になって風へ散っていく魔王の影。

 五年。十五で巻き込まれ、二十になるまで、剣と祈りと血の匂いの中にいた。


「――褒美を、望め」


 王の声は遠く、どこか儀式めいていた。勇者は疲れた顔で笑い、戦士は鎧を叩いて雄叫びを上げ、賢者は静かに頷いた。俺――麒麟堂敦志は、ただ手のひらを見つめた。


 聖者。

 癒やし、浄化し、守る者。けれど、守ったのは誰の世界だったのか。


「地球に帰りたい」


 言った瞬間、胸の奥が熱くなった。言葉にした途端、帰りたい理由がいくつも溢れそうになって、喉の奥で詰まった。母の味噌汁、父の不器用な背中、部屋の埃っぽい匂い。あの日の夕方。塾に行く途中で、足元の影が歪んだ――それきりだ。


 王が頷いた。


「ならば、これを授けよう。お前が得た“聖者”のすべてを、向こうの世界でも失わぬように」


 眩しさの中で、情報が流れ込む感覚があった。文字ではないのに、確かに“理解”できる。


――聖魔法:最大

――無属性魔法:最大

――アイテムボックス:最大

――鑑定:最大

――状態異常無効:常時


 そして光が、いまここまで続いている。


 次の瞬間、足裏が硬いアスファルトを踏んだ。雨上がりの匂い。排気ガス。遠くの踏切の警報音。

 俺は息を呑んだ。


「……地球、だ」


 空はやけに高く、雲が白い。見慣れた電柱と、少し色褪せた商店街の看板。身体の感覚は戦場のままなのに、周囲だけが“日常”を装っていた。


 ただし――その日常は、俺の知っている形のままではなかった。


 駅前の大型ビジョンに、ニュースが映っている。アナウンサーの口元の動きは昔と同じだが、テロップの単語が異常だった。


『第七渋谷ダンジョン、第四層で崩落事故。探索者協会は安全基準の再点検を――』


 ダンジョン。


 俺は思わず周囲を見回した。通行人の中に、明らかに場違いな格好の連中がいる。ヘルメット、硬質のプロテクター、バックパック。腰に下げた刃物の鞘。

 コスプレじゃない。歩き方が“現場”のそれだ。


 胸がざわつく。帰ってきたはずなのに、帰る場所が別物になっている。


 足が勝手に動き、記憶の道を辿った。コンビニの角を曲がり、橋を渡り、住宅街へ。

 俺の家があるはずの区画が近づく。心臓がうるさくなる。会えるかもしれない。五年ぶりに――。


 だが、家の前に立った瞬間、言葉を失った。


 更地ではない。家はある。ただ、門扉が新しく、表札の苗字が違う。庭の木も違う。俺の家じゃない。


「……は?」


 意味が追いつかない。頭の中で、常識がぐにゃりと歪んだ。

 俺は震える手でスマホを探そうとして――ないことに気づいた。異世界では当然のように持っていなかった。帰還に際しても、手元に戻るはずがない。


 代わりに、俺は指先を軽く握り込んだ。

 “鑑定”。最大。


 視界がわずかに澄み、目の前の世界が情報の層を帯びる。


《表札:佐久間(さくま)》

《居住者:一般市民》

《魔力反応:微弱》

《危険度:低》


 ……いや、そんなの要らない。知りたいのは、ここにいた家族がどこへ行ったかだ。


 通りの向こうから、犬の散歩をしている女性がこちらを不審そうに見た。俺の格好は、いまの地球では明らかに浮いている。聖衣――とは言っても、動きやすさを優先した白と黒の外套。腰には、異世界の小剣。背中には、杖。


 職質コースだ。

 そう理解した瞬間、俺の中の“生き延びるための感覚”が、静かにギアを入れ替えた。


 俺は視線を落とし、なるべく穏やかな声を作る。


「あの、すみません。この辺り、……五年くらい前に麒麟堂って家があったと思うんですけど」


 女性は犬のリードを短く持ち直し、距離を取った。


「……麒麟堂? 聞いたことないわねえ」


 胸が冷える。

 俺は言い直す。


「ここ、○○町の――」


「町名も変わったのよ。いまは“ゲート前地区”って呼ばれてる。ほら、あそこ」


 女性が顎で示した方向――駅のさらに先、空が妙に暗い場所がある。ビルの谷間に、黒い穴が口を開けているような、輪郭の曖昧な“何か”。


 遠いのに、肌が粟立った。

 異世界で何度も嗅いだ、魔物の匂いに似ている。


「……あれが、ダンジョン?」


 つぶやくと、女性が目を見開いた。


「あなた、ニュース見ないの? ダンジョンが出てから、もう三年よ。最初の年は大変だったんだから。モンスターが地上に溢れて――」


 三年。

 俺が消えてから五年。地球では五年が経っていて、そのうちの二年は“ダンジョンのない世界”で、残り三年は“ダンジョンのある世界”。


 じゃあ、俺の家族は――俺が行方不明になって、二年後に世界が変わって、それから……。


 女性は話を続けたが、俺の耳に入らない。

 行方不明。そんな言葉が、頭の中で反響していた。


 そうだ。俺は“死んだ”ことになっていない。発見もされていない。つまり――戸籍上、俺はどこにもいない。


 喉が渇く。

 俺は女性に礼を言い、足早にその場を離れた。背中に視線が刺さる。通報されてもおかしくない。


 駅前まで戻ると、交番の看板が見えた。

 行くべきだ。正しいのは。家族を探すなら、警察へ。そう頭では分かっている。


 でも、腰の剣が重い。

 異世界で覚えた感覚が、警告している。


――俺の存在は、いまの地球では異物だ。

――説明すればするほど、拘束される。

――その間に、家族に辿り着ける保証はない。


 そのとき、遠くで爆ぜるような音がした。


 人の悲鳴。

 駅前のビジョンが一瞬乱れ、緊急速報の赤い帯が走る。


『ゲート前地区・第二出口付近、モンスターの地上侵入を確認。周辺住民は避難を――』


 ざわめきが広がり、人が一斉に走り出した。

 俺の視界の端で、スーツ姿の男が転んだ。足を押さえ、立ち上がれない。群衆は彼を避けて流れていく。


 その向こう――例の“黒い穴”の近く、空気が歪む。

 裂け目から、赤黒い影が這い出した。四足。角。粘液。低く唸り、街の匂いを嗅ぐ。


 魔物だ。

 地球の街に、異世界と同じものがいる。


「……冗談だろ」


 身体が勝手に前へ出た。

 考えるより先に、祈りの言葉が口から滑り出る。聖魔法。最大。


「《ホーリーバインド》」


 白い光の鎖が地面から立ち上がり、魔物の脚を絡め取った。魔物が暴れ、鎖が軋む。けれど、俺の魔力は枯れない。かつて魔王軍の前線で、仲間を守り続けた“聖者”の器だ。


 周囲の人間が、呆然と俺を見る。スマホを向ける者もいる。

 やばい。目立つ。でも、いまは――。


 転んだ男が叫ぶ。


「た、助けてくれ! 足が……!」


 俺は駆け寄り、手をかざした。


「動くな。治す」


「は……?」


「《ヒール》」


 淡い光が男の足首を包み、腫れが引き、骨のズレが元に戻る。男の目が涙で潤んだ。

 魔物が鎖を引き千切ろうとする音が背後で響く。


 俺は立ち上がり、杖を握り直した。

 地球に帰ってきたはずなのに、また戦うのか――そんな問いが胸をよぎる。


 でも、答えはもう出ていた。


 俺が消えた五年で、世界は変わった。

 なら、俺も変わるしかない。


「……敦志、だ」


 誰に聞かせるでもなく、名を呟く。

 次の一撃を放つために。


 そのとき、背後から落ち着いた声がした。


「――確認します。あなた、探索者協会の登録者ではありませんね?」


 振り向くと、黒いジャケットの男女が二人、身分証を掲げて立っていた。腰には、現代的なホルスター。だが、目は戦場のそれだ。


「その魔法、どこで習得した。身元を提示してください」


 俺は一瞬、言葉に詰まった。


 身元。

 提示できるものなんて、地球には何一つない。


 魔物の唸りが、さらに低くなる。鎖が、今にも千切れそうだった。

 俺は協会員らしき二人と魔物の間に立ち、息を吸う。


 帰ってきた地球は、俺を待ってなんかいなかった。

 そして――俺は“行方不明者”のまま、最前線に立たされる。


「……登録は、これからする。まずは、あれを片付ける」


 俺が杖を掲げた瞬間、協会員の片方が、驚きと警戒が混ざった目で俺を見た。


「あなた……いったい何者だ」


 答えは、簡単なはずなのに難しかった。


 聖者。

 帰還者。

 行方不明者。

 そして――この世界で、居場所を失った二十歳の男。


 魔物が鎖を砕き、跳びかかってくる。

 俺は一歩踏み込み、白い光を解き放った。

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