儚恋

seiho

儚恋 前編

 橋の上に1人取り残された明里は、下を流れる川をじっと見つめた。

 地区境にゆっくりと流れるその川は、今日は一段と茶色く濁っている。

 

 明里は橋から身を乗り出した。

 お腹に橋の欄干が食い込み、頭は重力に従って下を向く。


 そして目から落ちる涙は、一滴、また一滴と川に流されて行った。

 


◇◆



 2022年2月中旬。

 全ての学校の中学入試が終了し、塾ではついに新小学6年生としてのスタートを切った。


 来年の中学入試合格に向け、今まで以上に勉強に精を出す。

 それが明里あかりに課された任務であり義務なのである。


 しかし正直、明里自身は勉強が好きではない。

 やらなくて良いなら絶対にやらないし、サボれるものならサボりたい。


 それでも明里は勉強をすることを選んでいるのには理由がある。


 勉強が将来の役に立つと思うから……?


 間違ってはいないが、もっと下心のある理由である。


 そう、


 “好きな男の子と同じ中学校に行きたい”


 ──これだけである。



 明里が好意を寄せている相手である秀斗しゅうとは、非常に聡明な男の子であった。

 優しくて、冷静で、小学生にしては大人びた性格で、隣にいると安心感を得ることができる。

 そんな秀斗に明里の心は鷲掴みされたのだった。


 そして秀斗は、中高一貫校である蘭星らんせい中を志望校としていた。

 蘭星中は共学なので、合格すれば明里も行く権利を得ることが出来るのだが、いかんせん蘭星中は偏差値が高く、そもそも明里が合格できるかが非常に怪しい。


 だから勉強をするのだが、出来ればもっと身の丈にあったところに行きたい。

 そう考えた明里は、秀斗に志望校を変えるよう示唆してみたこともあった。


「ねえ秀斗。なんで蘭星中を目指すの? 別にさぁ、みんなが行く近所の中学校で良いじゃんか」

「いや、それができないんだよ」

「なんで?」

「俺、小4の時に家を引っ越した関係であの中学の地区外になっちゃってさ。だから俺はみんなと一緒のところには行けないんだよ」


 なるほど、と明里は思った。

 つまり秀斗と明里が中学入試を全敗しても一緒になる未来はないということだ。


「うーんでも、じゃあなんでもっと簡単な中学にしないの?」

「俺が見学した中学校の中で蘭星中が1番良かったんだ。比較的近いし、校舎も綺麗だし。文化祭の雰囲気も良かったんだよね」

「へぇ〜!」


 明里も蘭星中に見学へ行ったことはあるのだが、正直、雰囲気や校舎などはあまり覚えていない。

 というのも、蘭星中がどんな学校であったとしても、秀斗が受験する以上明里自身も絶対に受験すると決めていたため、しっかり見なかったのだ。


「私も蘭星中が第一志望なの! 一緒に合格できるといいね」

「へぇ、明里も第一志望なんだね。 ……うん、そうだね、2人とも合格できるといいよね。お互い頑張ろうね」


 ということで、明里は勉強を続けざるを得なかった。

 夏休みも冬休みも正月も、勉強勉強勉強。

 明里はさほど地頭が良いわけではないため、足りない分は努力で補うしかない。

 幸運にも明里の両親は受験に協力的だったため、明里はやりたいだけ勉強をさせてもらえた。



◇◆



 そして、明里は体調を崩すこともなく、無事受験当日を迎えることが出来た。


 蘭星中の校門前で、父親に別れを告げる。


「パパ……」


 不安そうな明里の表情を見て、父親は明里に微笑みかける。


「明里、頑張れ。明里ならできるよ」

「うん……」


 父親から励ましの言葉があっても、緊張は明里を金縛りのように締め付け、解けない。


「……あ、そうだ」


 明里はポケットから子供用携帯を取り出した。

 そしてロック画面の背景にした秀斗の写真を見つめる。


 心が少し落ち着くような気がした。


「うん、パパ、明里、頑張るね」


 そう言って明里は蘭星中の校門を跨いだ。


 父親は少し寂しそうな顔を見せていた。



◇◆



 試験は難しかった。

 緊張も相まってか、過去問では8割前後を安定して取れていた算数もどうも手応えがない。

 何個か空白も作ってしまった。


 そんなただでさえ冷や汗が止まらない明里に追い討ちをかける事件が起きた。


 答案が回収されるときにたまたま見えてしまった後ろの子の答案。

 ──解答欄がすべて、埋まっていたのだ。


 校門前で襲ってきた緊張以上の何かが明里をぶわっと包み込む。


“いや、大丈夫……、大丈夫だよ、明里。後ろの子は、適当に数字を入れただけだよ”


 そう心に言い聞かせても、自分が手応えがなかったという事実も相まって、心臓の鼓動は治まらない。


 その後の教科も自分が出来なかったところだけが記憶に残り、蘭星中の校舎を出た時の明里の心は真っ黒だった。



◇◆



 その日の夜、明里は自分の部屋のカーテンを開け、月に向かってお祈りをした。

 正座をし、ゆっくりと頭を下げる。


「神様……、どうか……、どうか、蘭星中へ受からせてください。明里、今まで頑張ってきたんです、お願いします!」


 そして、秀斗のことがどれだけ好きかの熱弁と、神社に行っても石ころを蹴っていただけの自分の行動を神様へ弁明。

 これからはお賽銭を必ずすることを勝手に約束し、明里は眠りについた。



 その日の夜空は光り輝く満月で照らされていた。

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2025年12月28日 20:17
2025年12月29日 20:17

儚恋 seiho @T-Seiho

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