終章
深夜だった。部屋は閉ざされたカーテンと埃っぽい暗闇に沈み込んでいる 。美咲は、もはや自分がいつから立っているのか、あるいは立っているのかすら判然としなかった。彼女の肉体は、痛みも感覚も麻痺し、ただ鏡の前で、蝋人形のように静止していた。
鏡 。唯一、光を反射するその冷たい平面 に、美咲の最後の意識は集中していた。
鏡像は、以前と変わらず、醜悪な肥満体のままだった。全身の肉がぶよぶよと波打ち、丸い顔には深い憎悪と絶対的な支配の感情が浮かんでいる。それは、美咲の自己嫌悪と強迫観念が究極の形を取った、自己像の最終的な支配の象徴だった。
そして、声。
それまでの命令調の支配的な声から、それは一変していた。
鏡像は、醜悪な口元を歪ませ、絶叫した。
「消えろ! 消えろ! 消えろォォォ!」
鏡像の声の響きは、美咲という「現実の邪魔者」を排除しようとする意志そのものだった。その響きは、美咲の心臓を鷲掴みにする恐怖と、すべてを終わらせたいという解放への焦燥を病的に混在させていた。
それは突如として増幅し、美咲の頭蓋骨の中で炸裂するような、耳をつんざく轟音へと変貌した。美咲にとって、この轟音こそが、強迫観念と現実の苦痛を断ち切る絶対的な力の証明だった。美咲は、その瞬間、奇妙な安堵を感じた。
(ああ、これで、終わるんだ)
彼女の心に残っていたのは、鏡像が与え続けた強迫観念という呪縛からの逃走、それだけであった。鏡の外にある、この骨と皮だけになった現実の肉体は、もはや耐え難い苦痛を伴う飢餓の象徴に過ぎなかった。鏡の外の現実も鏡の中の支配も、すべてが終わりを迎えること。それこそが美咲にとって、抵抗の果てに掴んだ唯一の救済だった。
美咲は、震える手で、鏡に一歩近づいた 。
「早く来い」
絶叫は、最後の誘いとなった。
美咲は、残された最後の力を振り絞り、鏡の冷たい表面へと手を伸ばした 。彼女の指先が鏡に触れた瞬間、鏡の表面は、水面のように揺らめいた。
その歪んだ水面に、現実の美咲の骨張った姿が映るのと同時に、鏡像の肥満体が、美咲の手を掴むように、鏡の奥から迫ってくるのが見えた。
美咲はもう抵抗しなかった。鏡像への恐怖よりも、長く待ち望んだ「解放」の成就への期待が勝っていたからだ。
冷たい鏡は、粘度の高い液体のように彼女の手を飲み込み、次に腕を、そして全身を、吸い込むように美咲の姿を消し去った 。
美咲の部屋に残されたのは、閉ざされたカーテンと、床に散乱したカロリー表、そして、何も映さないかのように静かに佇む鏡だけだった。
翌朝。
美咲のアパートのドアは、鍵が破壊され乱暴に開け放たれた。優子と、連絡を受けて駆けつけた美咲の母親だった。優子は昨夜の美咲の冷酷な態度に危機感を覚え、母親に連絡し、警察に相談する前にとにかく様子を見に来たのだ。
「美咲! 美咲、いるんでしょ!」
母親の悲痛な声が、暗い部屋に響く。部屋は静まりかえっていた。テーブルには手を付けられていないペットボトルの水が残され、布団は畳まれたままだった。
彼女たちは、リビング、キッチン、そして最後に洗面所へ向かった。洗面所の蛍光灯だけが、煌々と光っていた。
「美咲!」
母親は洗面所のドアを開け、室内を見回した。そこに、美咲の姿はなかった。
しかし、彼女たちの目の前にある鏡には、驚くべき光景が映し出されていた。
鏡の奥には、美咲の年齢と同じくらいの、見覚えのある表情を持った、醜悪なまでに肥満化した女性が立っていた。その体は、現実の美咲が必死に拒絶し続けた肉の塊であり、顔は憎悪と傲慢さで歪んでいた。
その肥満体は、優子と母親を、鏡の奥からじっと睨みつけていた。
「あれは……、美咲?」
優子が震える声で尋ねた。
母親は、まず鏡の中を見た。美咲の着ていたものと同じ薄いシャツを纏った、醜悪な肥満体がいる。だが、その前に美咲はいない。
鏡の中の肥満体だけが、まるで美咲の部屋の「主」であるかのように、鏡という現実と幻覚の境界を隔てて、二人の人間を見つめ返している。
彼女たちは、鏡の中のその姿が、美咲がいないという事実と、鏡像の異様な存在感。それが自分たちの見間違い、あるいは幻影なのか、あるいは、鏡の中の像だけを残して美咲の体が忽然と姿を消してしまったという、説明のつかない現実なのか、判断できなかった。ただ、立ち尽くすしかなかった。
(C),2025 都桜ゆう(Yuu Sakura).
鏡の囁き 都桜ゆう @yuu-sakura
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