第三章
孤立からさらに数週間が過ぎた。美咲の身体は、限界を超えていた。
食事を絶ったことによる衰弱は、もはや「痩せている」というレベルを超えて、肉体の崩壊へと向かっていた。美咲は、大学へ行くための階段を上るのにも、息切れと目眩を感じ、講義中は貧血で意識が朦朧とすることが増えた。彼女の肌は土気色になり、唇は乾いてひび割れ、髪は抜け落ち始めた。
しかし、彼女の視界に入る鏡像は、そのたびに、さらに醜悪なまでに肥満化していった。
美咲が疲労困憊でアパートの床に座り込んだとき、鏡の中の肥満体は、膨らんだ腹を揺らし、嘲笑うかのように美咲を睨みつけた。
「怠け者め。体力がないだと? それはお前がまだこの醜い肉を抱えているからだ。もっと、もっと飢えろ」
声はもはや囁きではなく、美咲の脳内で響き渡る支配的な命令となっていた。声は彼女の唯一の真実であり、美咲の行動すべてを決定する絶対的なルールだった。
(食べるな。動くな。生きるためのすべてを拒絶しろ)
美咲は鏡の命令に従い、食料庫に残っていたわずかな非常食にも手を付けなくなった。彼女の部屋は、閉ざされたカーテンと暗い空気で満たされていた。光は、洗面所の鏡だけが反射する、冷たい蛍光灯の光しかない。
閉ざされた部屋は、美咲にとって社会からの物理的な断絶を意味し、鏡は、その断絶の中で彼女が縋りつく「唯一の真実」となっていた。
ある夜、美咲は極度の空腹と衰弱で、自分の体が床に融けていくような感覚を覚えた。ふと、鏡に映る自分の姿を見た。
現実の美咲は、まさに消え入りそうだった。骨格が皮膚の下から浮き上がり、生気のない目だけが虚ろに光っている。
一方鏡の中の肥満体は、その極限まで痩せ細った美咲の姿と逆転するように、圧倒的な存在感を放っていた。鏡像は、顔全体が脂でテカり、醜悪な表情で美咲を睨みつけている。その表情には、勝利と底知れない憎悪が満ちていた。
「お前は、もう終わりだ」
鏡像のぶよぶよとした唇が、微かに動いたように美咲には見えた。
「お前が拒否したすべての幸福、お前が拒否したすべての食事、お前が拒否したすべての愛情。そのすべてがこの肉となり、お前を支配する。お前の本体は、もう、私だ」
美咲は、鏡に映る肥満体と、床にへたり込んでいる骨だけの自分の、どちらが本当の自分なのか、分からなくなった。
(鏡の中のこの醜い塊が、私なの? それとも、この消え入りそうな体が、私なの?)
彼女の現実感は、霧散していた。友人や家族の顔は、遠い記憶の残像となり、優子の心配そうな声も、もはや美咲の心には届かない。鏡の囁きだけが、世界で唯一確かな音として存在していた。
鏡像は、美咲の混乱を楽しむかのように、さらに大きく笑った。その笑い声は、内臓を締め付けるような不快な音となって、美咲の頭蓋骨に響いた。
「お前は、この私を受け入れなければならない。お前は、お前自身を永遠に嫌悪し続ける運命にある。そうやってお前は社会との繋がりを断ち切った。その結果、お前は消えるのだ」
美咲は、這うようにして鏡に近づいた。細い指先が、鏡の冷たい表面に触れる。現実と幻覚の境界が曖昧になる中、鏡の中の肥大した自分の指も、同じように鏡に触れていた。
そこで、美咲は、鏡像の肌の感触を「肉厚で不快な熱」として感じた。それは悍ましい感触でありながら、この苦しみを終わらせる「絶対的な重さ」を持っているように思えた。
恐怖は極限に達し、反転した。美咲の心の中に広がったのは、安堵に近い感情だった。この強迫観念から解放されるのなら、どちらの自分が本当でも構わない。
彼女は鏡像の肥満体を、自分の「あるべき姿」として完全に受け入れた。そのため、痩せ細った現実の美咲の存在は、鏡像の支配を邪魔する、単なる「邪魔者」になっていた。「消えろ、消えろ、消えろ……」
声は、命令でありながら、美咲自身の内側から湧き出る願望のように聞こえた。美咲は、もはや現実の世界に生きることに耐えられなくなっていた。飢餓と衰弱という自己否定の「努力」が、鏡像による肯定と支配という形で報われる。鏡の中の歪んだ世界こそが、彼女にとっての唯一の「正しさ」が存在する場所だと信じ込んでいた。
彼女は、鏡像の肥満体が自分を呼んでいる気がして、鏡の中へ身を乗り出そうとした。しかし極限の飢餓によって、美咲の肉体はもう動けなかった。その肉体の限界が一瞬、「死」の寸前で反転する「生」の本能を呼び覚ました。その本能は、鏡の外の現実へ戻りたいという、微かな望みとなって美咲を揺さぶった。
しかし、鏡像はそれを許さない。肥満体は鏡の奥で、さらに顔を歪ませ、美咲の残された意志をすべて喰らい尽くそうとしていた。美咲の心理的な崩壊は、もはや避けられないものとなっていた。彼女の意識は、鏡の支配下に完全に飲み込まれる寸前で、曖昧な夢と現実にさまよっていた。
(どちらが、本当……の……私……?)
その問いは、答えを見つける前に、美咲の意識の闇へと消えていった。
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