第2章

「怠惰な体」

「もっと痩せろ」


 あの夜、鏡像の囁きを「真実」として受け入れてから、一週間が経過していた。美咲の日常は、もはや彼女自身の意志ではなく、洗面所の鏡に棲む、あの冷酷な声によって完全に支配されていた。


 声は、朝の目覚めから深夜の就寝まで、美咲が口にするもの、動かす身体、一日のすべての活動を批判し、命令を下した。

 そして、最も恐ろしい変化は、鏡像そのものに現れ始めていた。





 ある日の夕方、美咲が帰宅して手を洗おうと鏡を見たとき、彼女は一瞬、心臓が止まるかのような錯覚に陥った。

 鏡の中の美咲は、明らかに肥満化していた。


 現実の美咲は、極度の食事制限により、頬は削げ落ち、顎のラインは鋭利なナイフのようになり、肩の骨が鋭く突き出していた。シャツの下の腹部は窪み、わずかな体脂肪すら残っていない。


 しかし鏡像は違った。

 鏡の中の「もう一人の美咲」は、丸々と膨らんだ顔に、二重顎を乗せていた。骨張っているはずの腕はだるそうに太く、ウエスト周りには贅肉の層がはっきりと確認できる。


「よく見ろ」


 鏡像の太った口元は、微動だにしなかったが、声は美咲の頭蓋骨の内部で直接響いた。


「これが、お前の『現実』だ。お前はまだこんなにも醜い肉を抱えている。友人の言葉など聞くな。あれは、お前を太らせようとする罠だ」


 声は、かすかな囁きから、命令調へと変わっていた。「もっと痩せろ」「水も飲むな」「今すぐ走れ」。命令は絶対的で、美咲にはそれに抗う意志も体力も残されていなかった。


 その結果、鏡の支配はもはや日常のあらゆる場所に浸透し、壁に映る影、電車の窓に映る自分の姿、どこにでもその「太った鏡像」の残像が見える気がした。その恐怖と混乱は極限に達し、美咲の思考は完全に停止した。


 現実の痩せた姿と、鏡に映る醜悪な肥満体との恐ろしい乖離に吸い寄せられるように、彼女は鏡の前に立ち尽くした。現実の細い自分の指と、鏡の中のぶよぶよとした指を、呆然と見比べた。


(現実の私はこんなに細いのに、鏡は、私にまだこんな醜い贅肉があると言う。どうしてこんなに苦しまなきゃいけないの?)


「混乱するな。お前の感覚が嘘をついているのだ。お前の目がお前を騙している。この鏡だけが、お前がどれほど怠惰で、どれほど肥満であるかを知っている」


 鏡像が太った指を立てて、威嚇するように動かした。

 鏡像の威嚇が、美咲の心にその真実を刻みつけた。美咲を過剰なダイエットへと駆り立ててきたのは、いつだって自己嫌悪だった。鏡像の肥満体は、美咲が心の奥底で恐れていた罰の具現化であり、どれほど現実の体を削っても、「怠惰」や「罪」の意識が消えない限り、鏡像が痩せることはあり得ない。


 美咲は、この歪んだ真実を、抗うことなく受け入れ始めた。


(そうよ。この醜い体こそが私自身。周りの人たちが「細い」なんて言うのは、私にダイエットをさせないための嘘だ)


 彼女は、鏡を「唯一の真実」だと信じるようになった。

 孤立は急速に進んだ。

 友人たちとの会話は途絶え、美咲は大学の食堂にも、カフェにも近づかなくなった。彼女にとって、食べ物はもはや栄養源ではなく、「罪」の象徴だった。





 ある晩、優子から電話がかかってきた。


「美咲、もう一週間もちゃんと話せてないよ。お母さんも心配してる。今度の土曜日、二人でご飯食べようよ。好きなもの、何でもいいから……」


 優子の声は切実だった。

 美咲は自分の暗い部屋で、鏡に背を向けたまま、電話を耳に当てていた。

 その瞬間、鏡の奥から憎悪に満ちた声が響いた。


「食べるな。私を裏切る気か? その友人はお前を堕落させる毒だ。お前はまだ豚だ。お前が、普通に食事をしていいとでも?」


 美咲は全身の力が抜けていくのを感じた。


「ごめん優子。週末は……、課題が山積みで」


「美咲お願い。本当に危険だよ。この前あなたの腕を見たけど、折れそうだった。ちゃんと医者に行こうよ……」


「うるさい!」


 美咲は自分でも驚くほど冷酷な声を上げた。


「放っておいてよ。これは私が自分で決めたことなの。お願いだから、私の邪魔をしないで」


 そして、一方的に電話を切った。

 受話器を置いたとき、美咲は一歩も動いていないのに、背後の鏡像がテーブル越しに見つめているような、冷たい監視の視線を感じた。


 その視線に晒された小さなテーブルは、美咲が自ら拒絶した「満たされるべき人生」の残骸そのものに見えた。かつて温かかった食卓の記憶は、もはや、そこには存在しなかった。


 彼女は、優子や家族が差し伸べるような、普通で健康な生活から遠ざかった代償が、身体に現れ始めているのを自覚した。極限まで衰弱した美咲の身体は、少し立ち上がっただけで激しい目眩を起こし、不規則に心臓が脈打つ。その肉体は、今にも消えてしまいそうに、かろうじて存在していた。

 しかし、鏡の中の肥満体は、その衰弱を無視して、どんどん傲慢になっていく。


「そうだ! それでいい。貴様はよく苦しんでいる。その飢餓と衰弱こそが、お前にふさわしい罰だ。食べるな! この醜い現実から逃れるには、私に従うしかないのだ。もっとだ、もっと自分を罰しろ!」


 それでもなお、美咲は自らの醜さや罪を体現するこの鏡像に支配されることに、歪んだ自己の存在理由を見出していた。


 支配は彼女の日常となった。美咲は部屋のカーテンを閉ざし、暗闇の中に身を隠した。部屋のすべてが灰色に染まる中、ただ一つ、洗面所の鏡だけが、蛍光灯の光を反射し、彼女を待っている。


 美咲は、完全に社会から断絶し、鏡の中の肥満体という「自己嫌悪の支配者」に魂を捧げた囚人となっていた。

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