第1章

冷え込んだ朝の光が、美咲のアパートの窓から差し込んでいた。昨夜は空腹のせいでまともな睡眠が取れず、体は鉛のように重い。しかし、体重計の数字が微動だにしなかったという事実が、彼女をベッドから無理やり引きずり出していた。


(こんなところで立ち止まれない。もっと努力しなくちゃ。早くこの体を変えないと、私にはもう時間がないんだから)


 大学へ行く準備をしながら、美咲は再び洗面所の鏡の前に立つ。洗面所の鏡は、彼女が毎日最も長く対峙する場所だ。


 いつものように、自分の体に厳しい目を向けた。鎖骨、肋骨、頬のライン。現実には、骨と皮ばかりの体だが、美咲の視覚はそれを「まだ太っている」と歪曲して捉える。彼女はシャツをまくり上げ、腹部をチェックした。


 その時だった。

「まだ、太い」

 美咲は、その声を聞いた瞬間、息を止めた。


 それは、耳で捉える音というより、脳の奥深くに直接響くような、かすれて乾いた女の声だった。

 美咲は瞬時に周囲を見渡した。アパートの部屋には、自分一人しかいない。外は早朝特有の静けさに包まれている。


(違う。違うわ、気のせいよ。ただ疲れているだけ。きっとそうよ)


 美咲は強く頭を振って、この「幻聴」を打ち消そうとした。彼女は自己の精神状態が危ういことは薄々気づいていた。栄養失調は幻覚や幻聴を引き起こす。そう自分を納得させた。


 しかし、鏡の中の自分の顔を見たとき、彼女は再び違和感を覚えた 。

 鏡に映る美咲の顔は、現実の自分の顔と比べてわずかに、本当にわずかにだが、頬の肉が丸く、顎のラインがぼやけて見える気がした。彼女の現実の目は、やつれて窪んでいるはずなのに、鏡像の目はどこか浮腫んでいるように見えた。


「ああ、もっと痩せろ」


 再び声がした。今度は、先ほどより少しだけ明瞭だ。美咲自身は口を動かしていない。だが、鏡像の口元が微かに歪んで見える気がした。

 美咲は恐怖に襲われた。彼女は慌てて顔を洗い、鏡から目を背けた。洗面所から逃げるように離れ、急いで家を出た。




 その日、美咲は大学の講義中も、声と鏡像の違和感が頭から離れなかった。


(違う、あれは私自身よ。私が私を責めている声が、外に漏れただけ。社会のせいなんかじゃない。私が弱いから、こんな幻聴を聞くのよ……)


 彼女は、自分を「精神的に病んでいる」と客観視することで、内面の崩壊を必死に食い止めようとした。その自己防衛の手段として、他者との交流を断ち切った。

 友人である優子に昼食に誘われたとき、美咲はいつものように「課題があるから」と断った。優子は心配そうに美咲の細い腕を見た 。


「美咲、本当に心配だよ。ご飯ちゃんと食べてる? この間よりまた痩せてるじゃない」


「食べてるよ。優子、大袈裟」

 美咲は冷たい声で答えた。


 優子の顔が、美咲には優しさではなく、「嘘」に満ちているように見えた。なぜなら、体重計の数字は美咲がまだ目標に達していないと証明しているからだ。優子が「痩せすぎ」と言うのは、美咲を油断させて、ダイエットをやめさせようとする罠のように感じられた。


(優子もみんなも、私の努力を邪魔しようとしてる)


 


 夕方、美咲は図書館で勉強を終え、再びアパートへ戻った。

 アパートに入ると、美咲は手を洗う目的を忘れ、まるで引き寄せられるように洗面所へ向かった。彼女の足は、抗うことなく鏡の前で止まった。

 美咲は意を決して鏡を覗き込んだ。

 鏡像は朝よりもわずかに、肥大化しているように見えた 。


「怠惰な体」


 声がした。囁きはもう幻聴ではない。それは、美咲の自己嫌悪の核から生まれた、独立した人格のように感じられた 。


「昼食を断っただけでは不十分だ。お前は今日、水を飲みすぎた。そのせいで浮腫んでいる。無駄だ、無駄だ、無駄だ」


 声は苛立っているようだった。美咲は、恐怖と同時に、妙な納得感を覚えた。


(そうよ。この醜い体は私が怠けた罰だわ。みんな優しい嘘をつくけれど、鏡は嘘をつかない。この醜い現実から、もう逃げちゃいけない。この鏡の姿こそが真実なんだ)


 彼女は、周りの人間が示す現実を拒絶し、鏡が示す「真実」に完全に身を委ねていた。鏡は、彼女の「自己評価の呪縛」が生み出した、揺るぎない絶対的な指標となっていた。


 美咲は震える手で鏡に触れた。鏡の表面は冷たかった。まるでその冷たさが、彼女の不安をすべて吸い取っていくかのように。


「明日からもっと絞れ。さもないと、お前は醜くなる」


 鏡の中のわずかに太った美咲の口元は、またしても歪み、勝利を確信したような笑みを浮かべているように見えた。囁きは、美咲の心の中に、確固たる居場所を築き始めていた。

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