第11話 色男、金と力は、なかりけり
夕闇が板橋の空を紫に染め、駅前からはスーパーの安売りのアナウンスや、家路を急ぐ自転車のベルの音が聞こえてくる。
「……色男、金と力は、なかりけり。か。ふふ、誰が言ったか知らぬが、実に小気味よい毒ではないか」
ヒカルは、学生鞄を肩にかけ、狭い路地を歩きながら独り言ちた。 二億の借金は返した。だが、手元に残ったのは、父が再びやらかさないよう管理するための「わずかな生活費」と、二人のヒロインから叩きつけられた「清々しいまでの拒絶」だけだ。
前世の彼であれば、牛車を駆らせ、幾枚もの絹を重ねて愛を囁いた。だが今の彼は、百円ショップのビニール傘を杖代わりに、夕食の割引惣菜を求めて歩く身分である。
「ヒカル様! 待って、ヒカル様ったら!」
背後から走ってくる足音。ヒカルが優雅に(しかし内心では『また金の話か?』と身構えながら)振り返ると、そこには息を切らした学園の令嬢たちが数人、頬を上気させて立っていた。
「どうした、愛しき小鳥たちよ。余の美貌を拝むための拝観料なら、今はタイムセール中につき無料だが?」
「もう、相変わらず……! これ、差し入れです! 解体ショーの時のヒカル様、本当に、本当に凄くて。私たち、感動しちゃって……」
差し出されたのは、手作りのクッキーや、高級そうなチョコレートの箱だ。ヒカルはそれを、かつて宮中で贈られた和歌の短冊を受け取るような手つきで、恭しく受け取った。
「感謝する。汝らの真心、このヒカル、骨の髄まで染み渡るようだ。……ああ、いい香りだ。バターの芳醇な香りが、疲れた心に春を運んでくる」
「あ、あの! 今度、お茶でも……!」
「おっと、そこまでだ」
ヒカルは、彼女たちの肩に指先が触れるか触れないかの絶妙な距離で、そっと制した。その瞳には、かつての「誰でも彼でも抱き寄せる」ような無節操な光はない。
「余は今、修行中の身。一人の女を愛するということが、いかに峻険な山を登るが如き難事であるか、それを噛み締めている最中なのだ。……すまぬが、今はその茶、独りで飲むのが風情というもの」
令嬢たちが「きゃあ!」と悲鳴に似た吐息を漏らして去っていく。その背中を見送りながら、ヒカルはふっと肩の力を抜いた。
「……ふう。格好をつけるのも楽ではないな。腹が鳴る」
鼻をつくのは、近所の家から漂ってくるカレーの匂い。五感を刺激する生活の香りが、かつての貴公子を容赦なく「現代の高校生」へと引き戻す。
「あら、相変わらずお盛んね。独り身のくせに」
不意に横の路地から現れたのは、買い物袋を下げたアリスだった。 彼女の袋からは長ネギが飛び出しており、そのあまりにも生活感あふれる姿に、ヒカルは思わず目を細めた。
「アリスか。独り身とは失礼な。余の心には常に、君とエレンが……」
「はいはい、その話は雪の夜に終わったでしょ。あんた、借金返した途端にまた遊び歩いてるって噂よ。少しは反省したら?」
「反省か。……しているさ。毎日、この胸が焼けるようにな。金はなく、権力もなく。あるのはこの顔と、少しばかりの処世術。……アリス、君から見れば、今の余は滑稽だろう?」
ヒカルは足を止め、街灯の下で彼女を見つめた。 冬の名残の冷たい風が、彼の髪を揺らす。アリスは足を止め、長い沈黙の後、小さく鼻で笑った。
「滑稽よ。最高に。……でも、二億を返してボロボロになって、それでも『余』なんて言ってるあんたは、以前の『何でも手に入ると思ってたお人形』よりは、少しだけマシに見えるわ」
「少しだけ、か。……それは、二億五千万分の一くらいの希望と捉えても?」
「計算が細かすぎるわよ。ほら、エレンもあそこでバイトしてるわよ。挨拶くらいしていったら?」
アリスが指差した先には、駅前のコンビニがあった。 自動ドアが開き、エレンが「いらっしゃいませ!」と元気に声を上げている。彼女はヒカルの姿を見つけると、一瞬驚いたように目を見開き、それから「また来たんですか」と困ったように笑った。
ヒカルは店に入り、一番安い緑茶のペットボトルをレジに置いた。
「エレン。今日の君も、朝露に濡れた花のように瑞々しい」
「ヒカルさん。そのセリフ、ペットボトル一本で言われると、すごく安っぽく聞こえるんですけど」
「……っ。言ったはずだ、今の余には金も力もない、と。だが、言葉だけは枯れぬのだ」
エレンはお釣りを渡しながら、ふと真剣な顔でヒカルの手を見た。 鮪の解体で作り、借金返済の事務作業で汚れた、かつての白魚のような手とは違う、働く男の手。
「ヒカルさん。私、今のあなたの方が好きですよ」
「なっ……! エレン、それは……!」
「あ、勘違いしないでくださいね。人間として、です。前世がどうとか、貴族がどうとか言ってた時より、今の方が……ちゃんと、板橋の空気を吸ってる感じがしますから」
エレンはいたずらっぽく笑い、「次の方どうぞ!」と彼を追い払った。
店を出ると、外はもう真っ暗だった。 冷たい空気。アスファルトの匂い。遠くで走る電車の振動。 ヒカルは、手の中の冷たいペットボトルを、熱を帯びた頬に当てた。
「金もなく、力もなく。愛する女たちには、人間としてしか好かれぬか。……はは、はははは!」
彼は声を上げて笑った。 それは、かつての宮中で、孤独を隠すために浮かべていた虚飾の笑いではない。 ままならぬ現実に翻弄され、それでも自らの足で立っていることを楽しむ、一人の少年の笑いだった。
「良いではないか。一から、いや、零(ぜろ)からよ」
彼は夜空を見上げた。 板橋の空は狭く、星も少ない。 だが、その一筋の光が、今の彼には、かつての極楽浄土の輝きよりもずっと、眩しく、愛おしく感じられた。
「さあ、帰ろう。……明日の朝食は、アリスに言われた通り、ネギでも刻んで味噌汁にするとしよう。それが、今の余の『雅』というものだ」
ヒカルは、誰に聞かせるでもない鼻歌を歌いながら、暗い夜道へと踏み出した。 色男、金と力はなかりけり。 だが、その心には、千年の時を超えてようやく手に入れた、確かな「生」の熱が宿っていた。
【これにて『悪役令息・光源氏がやってきた!』完結】
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