第12話 そして新しい年へ
十二月二十七日。 カレンダーの数字は残り少なく、世の中は「数へ日」の慌ただしさに浮き足立っている。
二億の借金を完済し、放蕩貴族から「ただの貧乏な美形」へとジョブチェンジしたヒカルは、板橋にある古いアパートの一室で、ひとり、火鉢の前に座っていた。
「……ふむ。炭の爆ぜる音、これこそが冬の真髄よな」
パチッ、と炭が跳ねる。 かつては最高級の備長炭で暖を取っていた彼だが、今は近所のホームセンターで買った安物の炭だ。それでも、熾火(おきび)が放つ赤暗い光は、冷え切った六畳間に確かな「生」の輪郭を与えている。
窓の外は、数日前の華やかな聖夜の喧騒が嘘のように、厳かな静寂に包まれていた。 庭先には、凍てつく土から顔を出したクリスマスローズが、俯き加減に白い花を咲かせている。まるで、あの夜にヒカルを拒絶したエレンの、潔い背中のように。
「ヒカル! 入るわよ。……相変わらず、煙たい部屋ね」
断りもなく扉を開けたのは、アリスだった。 彼女は厚手のコートに身を包み、腕にはずっしりと重そうな袋を抱えている。
「アリスか。せっかく**冬薔薇(ふゆそうび)**のような気高い孤独を楽しんでいたものを。……おや、その芳醇な香りは」
「九年母(くねんぼ)よ。実家から送られてきたの。それと、これ。父が『ヒカル君に』って。脂の乗った鱈(たら)と、寒中に締まった真鴨(まがも)。……食べきれないから、あんたのところで鍋にするわよ」
「……っ。アリス、君という人は……。余が孤独に死ぬことすら許さぬというのか」
「勘違いしないで。余った食材の処分よ。ほら、手伝いなさい」
二人は狭いキッチンで肩を並べた。 まな板の上で鱈が捌かれ、鴨の赤い肉が並ぶ。窓の隙間からは「霜」を孕んだ冷気が入り込むが、火鉢の熱と鍋の湯気が、それを優しく押し返していく。
「ヒカルさん、こんばんは。……わあ、豪華!」
不意に現れたのは、バイト帰りのエレンだった。 彼女の手には、少しだけ傷のついた**蜜柑(みかん)**の袋が握られている。
「エレン、良いところへ来た。今、アリスが余を『鴨』にしようと企んでいるところだ」
「ふふ、美味しそうな鴨ですね。あ、これ、バイト先で余ったからってお裾分けしてもらったんです。デザートにしましょう」
三人は、小さな机を囲んだ。 鍋の中では、鴨の脂が黄金色に輝き、鱈の身が雪のように白く弾けている。 ヒカルは、アリスが注いでくれた「温め酒」を一口含んだ。
「……沁みる。前世の贅を尽くした宴よりも、この、板橋の片隅で啜る酒の方が、なぜか喉を熱くさせる」
「それは、あんたが自分で働いて、空腹を知ったからよ」
アリスが呆れたように笑う。 エレンが蜜柑を剥き、その甘酸っぱい香りが部屋いっぱいに広がった。
「ねえ、ヒカルさん。借金を返して、自由になって。……今年は、どんな一年でした?」
エレンの問いに、ヒカルは炭を見つめた。 「年歩む」という言葉がある。 時は止まらず、ただ着実に、一歩ずつ進んでいく。 二億の負債に泣き、鮪を解体し、二人のヒロインに振られ、板橋の空を仰いだ。 かつての「光源氏」という虚像が剥がれ落ち、中から出てきたのは、空腹を感じ、寒さに震え、人の温もりに安らぐ、ただの男だった。
「……左様。失ったものは数知れぬ。権力も、金も、そして……汝らの愛もな」
「まだ言ってる」 「往生際が悪いですよ」
二人の容赦ない突っ込みに、ヒカルは愉快そうに目を細めた。
「だが。この池涸(いけか)るような寒々しい心に、今は確かな熱がある。……アリス、エレン。余は、来年もここで、汝らと笑っていたいと願っている。これは、不遜な望みだろうか?」
「……さあね。あんたの行い次第じゃない?」 アリスは顔を赤くして、熱い鍋の汁を啜った。
「そうですね。でも、まずはこの蜜柑、全部食べてからにしてください」 エレンが、一番大きな蜜柑をヒカルの口に押し込む。
窓の外では、夜空を**鷹(たか)**が横切るような鋭い風が吹いた。 「年の内」にやり残したことは、まだ山ほどある。 だが、火鉢の中の炭が、最後の一欠片まで熱を放ち続けるように。 ヒカルの命もまた、この板橋の地で、泥臭く、しかし誰よりも光り輝きながら、新しい年へと歩みを進めていく。
「……美味いな、蜜柑というのは」
雪が、降り始めていた。 しんしんと、しかし温かな、板橋の夜。 ヒカルは、二人の少女の笑い声に包まれながら、静かに目を閉じ、千年の時を超えた「真の充足」を噛み締めていた。
【第12話・完 ―― そして新しい年へ】
悪役令息・光源氏がやってきた! 春秋花壇 @mai5000jp
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