第10話:光は板橋の空へ散る
第10話:光は板橋の空へ散る
二億という数字が、ただの「記録」へと変わった。 父が投げ出した負債は、鮪の返り血と、ヒカルが磨り減らした自尊心の代償として、完済という名の終止符を打たれた。没落貴族という名の崖っぷちから、彼は辛うじて、泥だらけの指先で這い上がったのだ。
春の気配が微かに混じる、三月の昼下がり。 学園の屋上からは、板橋の街並みがどこまでも平坦に広がって見えた。高層ビルの隙間に、古びた商店街の屋根が混じり、遠くには首都高速の喧騒が陽炎のように揺れている。かつて彼が愛した平安京の、山に囲まれた箱庭のような美しさとは似ても似つかぬ、雑多で、力強い風景。
「……ふむ。こうして見れば、この地も悪くない」
ヒカルは、学生服の第一ボタンを外したまま、手すりにもたれかかった。 かつては「国外追放」という名の死刑宣告に怯えていたが、今やその危機は去った。代わりに残ったのは、学園内での「美貌だけは神の領域だが、中身が致命的に残念な男」という、あまりにも不名誉な定評である。
「ヒカル様。またそんなところで、黄昏(たそがれ)ているのですか?」
背後から呆れたような声がした。 振り返るまでもない。アリスだ。彼女は婚約破棄こそ保留にしているものの、その目はもはや愛する男を見るものではなく、手のかかる親戚の子供を見るそれに近い。
「アリスか。余の横顔に見惚れるのは勝手だが、あまり熱い視線はよしてくれ。火傷(やけど)をするぞ」
「……その、息を吐くように出てくる自惚れ。本当に病気ね。安心なさい、熱い視線じゃなくて、冷ややかな視線よ。あと、これ。生徒会からの呼び出し状」
アリスが突き出した紙を、ヒカルは優雅な所作で受け取った。 そこへ、掃除用具を持ったエレンが通りかかる。彼女はヒカルと目が合うと、以前のような怯えも、憧れも、そしてあの夜の悲しみも超えた、ごく自然な、しかし決定的な「線」を引いた笑顔を見せた。
「あ、ヒカルさん。借金、本当に返し終わったんですね。おめでとうございます」
「エレン。余の偉業を称えるなら、言葉だけではなく、その……」
「あ、無理です。バイトあるんで、失礼しますね」
さらりと流された。 かつてのヒカルであれば、ここで「なぜだ!」と天を仰いだだろう。だが、今の彼は、少しだけ苦い、しかし穏やかな笑みを浮かべる術を覚えていた。
「……選ばれぬことには、慣れたつもりなのだがな。やはり、この胸の痛みだけは、前世の知恵を以てしても癒えぬものだ」
ヒカルは呟き、二人を見送った。 エレンは「等身大の幸せ」を求め、アリスは「自分だけの誇り」を求めて歩き出している。そこにヒカルの席はない。彼は救世主でも、運命の恋人でもなかった。ただの、価値観を破壊し、そして自らも破壊された「異物」に過ぎない。
やがて放課後の喧騒が遠のき、空は茜色から深い藍色へと溶け込んでいった。 板橋の空には、一番星が遠慮がちに瞬き始めている。 ヒカルは懐から、一振りの扇ではなく、安物のボールペンと、裏紙を取り出した。
「前世の余であれば、ここで世を儚(はかな)み、雅な歌を詠んで終わるところだが……」
彼はペンを走らせる。 滑らかな草書ではない。一文字ずつ、この世界の「今の言葉」を刻むように。
「和歌とは、心を形にするもの。ならば、飾る必要など、もはやあるまい」
書き終えた紙を、彼は夜風にかざした。
「独り寝の 寒さ知る夜も 悪くない 板橋の空 月は一つだ」
雅さは、微塵もない。 「独り寝」などという言葉を、稀代のプレイボーイが詠むなど、前世の彼が見れば卒倒しただろう。だが、これが今の、二億の借金を返し、二人の女に振られた男の、等身大の「真実」だった。
一対一で向き合うこと。 誰かを特別にするということ。 その重みに耐えられず、逃げ続け、全てを手に入れようとして全てを失った。 けれど、その喪失の果てに、彼は初めて「自分自身」としてこの地面に立っている実感を抱いていた。
「……月は、一つか。左様。余も、一人よ」
ヒカルは満足げに頷くと、その紙を適当にポケットへねじ込んだ。 完勝ではない。恋の成就でもない。 ただ、二億の泥の中から生還し、明日もこの学園で「変態令息」として指を指されながら生きていく権利を手に入れただけだ。
「さあ、帰るとしよう。父上がまた変なツボでも買っていないか、見張らねばならぬからな」
彼は颯爽と、しかしどこか軽やかな足取りで階段を降りていった。 その背中には、かつての「光源氏」の幻影はもうない。 ただ、夜の街灯に照らされた、ひとりの傲慢で不器用な少年の影が、長く、強く、板橋のアスファルトに伸びているだけだった。
【物語・完】
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